レーピン & 諏訪内 & マイスキー & ルガンスキー (トランス = シベリア芸術祭 in Japan) 2016年 6月18日 サントリーホール

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世の中には夢の共演とか夢の対決とかいう言葉がある。それぞれが高い知名度と独自の世界を持つ天才、英雄、ヒーロー、スターなどが顔を合わせ、火花を散らし、組んずほぐれつ、何か大変なことが起こることへの、抑えられないワクワク感。このブログでもご紹介した、「バットマン vs スーパーマン」とか「キャプテン・アメリカ シビル・ウォー」とか言った、スーパーヒーロー同士の戦いを描いた最近の映画などは、そのような人の心理にうまく働きかけるものであった。もちろん現実世界でも、アントニオ猪木対モハメド・アリ (古いなぁ。アリのご冥福をお祈りする) とか、マイク・タイソン対マイケル・スピンクス (これも充分古い) などもあった。あ、比喩が適当ではないかもしれないが、このブログでは、クラシック音楽に興味のない人たちにも楽しんで頂くことを目標のひとつにしているので、ついつい調子に乗ってしまいました。もちろん、ポピュラー音楽の世界でも、ポール・マッカートニーとエリック・クラプトンとか、もっと言うと USA フォー・アフリカによる "We are the World" とか、日本で言うと五木ひろしと都はるみとか、桑田佳祐と Mr. Children とか、いろんな夢の共演が開かれてきた。

さて、ではそろそろ本題に入ろう (笑)。この記事のタイトルは、上のチラシの文句をそのまま転用していて、クラシック音楽の知識のない方にはチンプンカンプンかもしれないが、これはすごい顔合わせなのだ。つまり、
 ワディム・レーピン : ヴァイオリン
 諏訪内 晶子 : ヴァイオリン
 ミッシャ・マイスキー : チェロ
 ニコライ・ルガンスキー : ピアノ
というこの 4人。世界的な知名度には多少のばらつきはあるかもしれないが、いずれ劣らぬ現代最高の名手たちだ。彼らが一堂に会して演奏するこの機会は、大変貴重なものであり、なんともワクワクする。しかも開催は土曜の夕方。きっとチケットは超高額で、会場のサントリーホールは押すな押すなの超満員、チケットを求める人たちであふれ返っているのだろう。と思ったのだが、実はチケット代はそれぞれのアーティスト個別の演奏会と変わらず、しかも行ってみると会場にはかなりの空席が。一体どうしたことか。

この夢の共演は、実は「トランス = シベリア芸術祭」という、音楽とバレエをメインとするイヴェントの日本版。このイヴェントの芸術監督が、上記メンバーで最初に名前の出ている、ロシア人ヴァイオリニストのワディム・レーピンであるのだ。
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1971年生まれだから今年 45歳になる。だが彼は同い年のピアニスト、エフゲニー・キーシンや、3歳下のヴァイオリニストであるマキシム・ヴェンゲーロフらと同様、少年の頃からソ連 - ロシアの神童として知られていたので、へぇー、もう 40歳半ばかと思ってしまう。昔はちょっと太めで半ズボンをはいた神童であったが、既にごま塩頭の年齢となり、その立ち姿は今ではすっきりとスマートで、名実ともに現代を代表する名ヴァイオリニストとなった。私は知らなかったのだが、彼の出身はシベリアのノヴォシビルスク。その場所で、3年前からトランス = シベリア芸術祭を立ち上げたという。実は今回日本でもこの豪華な演奏会以外にいくつか公演があるのだが、スヴェトラーナ・ザハーロワというバレエダンサーが踊り、レーピンがアンサンブルを率いて伴奏するものが 3回ある。バレエに疎い私はよく知らないが、現代最高のバレリーナであるらしいこのザハーロワは、今のレーピンの奥さんである由。ほぅ、これはこれは。
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この芸術祭は、そのように歴史が浅いものの、さすがレーピンの手腕であろう。既に様々な世界的な音楽家が出演していて、今回の会場であるサントリーホールには、過去の芸術祭での演奏風景の写真パネルがいろいろと展示してある。レーピンと共演するケント・ナガノ。シャルル・デュトワ。今回も出演しているマイスキー。
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さて、これでコンサートの概要はお分かり頂けようが、さて、上記 4人のメンバーを見ると、ヴァイオリンが 2人にチェロにピアノ。ここには 2つの疑問がある。まず、レーピンとともに世界的ヴァイオリストであり、年齢も近い諏訪内が、果たして第 2ヴァイオリンのパートに甘んじるか否かということ。もうひとつ。こんな編成で演奏できる曲目など、全く思いつかない。弦楽四重奏には必ずヴィオラが必要だ。どうなっているのか。・・・ご安心下さい。これらの問題はちゃんと解決されるのだ。まず最初の問題は、レーピンと諏訪内の 2人だけの演奏では、第 1ヴァイオリンと第 2ヴァイオリンが拮抗する曲を選び、それ以外の曲目ではこの 2人のいずれかが第 1ヴァイオリンとなることで、「どちらが上位か」の問題は回避。そして第 2ヴァイオリン奏者とヴィオラ奏者もちゃんと出演する。
 田中杏菜 : ヴァイオリン (1996年生まれの若手でノヴォシビルスクで勉強中)
 アンドレイ・グリチュク : ヴィオラ (名ヴィオラ奏者ユーリ・バシュメットが結成したモスクワ・ソロイスツのメンバー)

さあそうなると、実際には 6人の演奏家が登場するわけだ。一体いかなる曲目だったのか。役割分担がなされ、よく考えられている。
 プロコフィエフ : 2つのヴァイオリンのためのソナタ ハ長調作品56 (レーピン、諏訪内)
 ドヴォルザーク : ピアノ五重奏曲 イ長調作品81 (諏訪内、田中、グリチュク、マイスキー、ルガンスキー)
 チャイコフスキー : ピアノ三重奏曲 イ短調作品50 「偉大な芸術家の思い出に」(レーピン、マイスキー、ルガンスキー)

最初のプロコフィエフは上記の通り、2つのヴァイオリンが拮抗する曲で、一応音域で第 1と第 2があるようには見えたが、技量の差は想定されていないだろう。以前、クレーメルが誰かと演奏した録音を聴いた記憶があるが、まさにクレーメルにはぴったりな、あるときは悪魔的、あるときは瞑想的な曲である。レーピンも諏訪内も、クレーメルのような鋭さよりは朗々と歌うことに持ち味があるが、ここでは非常に切れのよいデュオを見せ、さすがと思わせた。やはり夢の共演、お互いのプライドというものもあるだろう。
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2曲目のドヴォルザークは、一転して郷愁あふれる、いかにもこの作曲家らしい名曲。ここではマイスキーのチェロが素晴らしい。彼は現代においてヨーヨー・マと並ぶ世界最高のチェロ奏者だが、ヨーヨー・マがその流麗で軽々とした表現を得意とするなら、マイスキーは魂の奥に響くような重さを身上とする。ユダヤ系ラトヴィア人で、ソ連時代に強制収容所に入れられた経験も、彼の音楽の表現力の重要な部分を形成しているだろう。
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ピアノのルガンスキーは、以前広上淳一指揮 NHK 交響楽団との協演を記事にしたこともあるが、1972年生まれの長身のピアニスト。日本での知名度はもうひとつかもしれないが、今やロシアのみならず世界的に見ても間違いなくトップクラスのピアニストである。
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彼らの紡ぎ出す音は、抒情的に揺蕩うかと思うと突然走り出す箇所が何度も出てくるこの曲に、大変新鮮な息吹を与えていたものと思う。もしかすると常設の一流弦楽四重奏団とピアニストの共演の方が、さらに密に呼吸を確認しあう演奏になったかもしれないが、世界クラスのソリストたちが集まる夢の共演においては、整理された音よりもむしろ、それぞれの持ち味を聴きたいと思うもの。その意味でもマイスキーが出色であったと思う。弦楽四重奏団のチェリストは、あそこまで上手くないことが多いからね (笑)。

そして後半のチャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出に」も、情緒あふれる第 1楽章と、様々な表情を見せる変奏曲の第 2楽章ならなる、素晴らしい名曲。私は、1997年に録音されたこの曲の CD で 26歳のレーピンの演奏を楽しんで来た。せっかくなのでそこに掲載されている写真を載せておこう。若いなぁ。おっ、右側に座っているピアニストは、諏訪内と同じ 1990年にピアノ部門でチャイコフスキーコンクールを制し、「同期」として一時期彼女とデュオを組んでいた、ボリス・ベレゾフスキーではないか。
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それから実演で聴いたこの曲の演奏としては、このマイスキーと、そしてまたまた名前が登場する (笑) クレーメル、そしてアルゲリッチという、これまた究極の 3人の夢の共演が忘れがたい。これぞまさしく、偉大な音楽家たちがそれぞれに異なる個性をぶつからせた、面白い演奏として記憶に残っている。それに比べると今回はまだ、お互いを尊重した (?) 演奏に聴こえたように思う。レーピンのヴァイオリンには艶があるのだが、同時に、うまくほかの奏者とその色合いを合わせるようなところが感じられた。つまり、技巧をひけらかすような雰囲気は微塵もないので、人によっては少し物足りないという気がしたかもしれない。マイスキーのチェロ (ところでこの人はいつもイッセイ・ミヤケデザインの衣装を着るのだが、今回、前半は黒、後半はシルバーであった) はいつも同じく心を揺さぶる情緒的音楽。そしてルガンスキーはと言えば、時に大きな音で流れを支配することもあるが、常に大きい音に終始したアルゲリッチとは異なり (笑)、場面に応じて見事な脇役ぶりだ。結果として、3人がうまく支え合う説得力のある音楽に感動したが、もしかすると、さらに自由にやってもらうと、もっと刺激があったかもなぁとも思ったものである。

さて、是非とも書いておきたいのがアンコールだ。後半の奏者はレーピン、マイスキー、ルガンスキーの 3名であったが、演奏終了後ステージには諏訪内、田中、グリチュクも登場。総勢 6名となった。つまり、第 1ヴァイオリンが 2人になってしまったので、最初の疑問ではないが、こんな編成で演奏できる曲なんて絶対ないだろうと思いきや、ステージではアンコールが始まった。演奏されたのは、フランスのエルネスト・ショーソン作曲、「ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のための協奏曲」の第 2楽章。私はこの曲を知らなかったが、あの詩情あふれる曲を数々書いた (なにせ、代表作は私も大好きな「詩曲」である!!) この作曲家のナイーヴな感性を思わせる抒情的な音楽で、ソロを弾いたレーピンが素晴らしい呼吸で他の奏者たちをリードした。全く音楽の歴史には様々な曲があるものだと感心し、また、これだけのメンバーが一堂に会して奏でる音楽は、やはり特別なものだなぁと実感した。

上述の通り、客席にはかなり空きがあったコンサートで、実にもったいないことだと思ったが、これらの演奏家はそれぞれ単独で充分な集客力を持つことが、逆に作用してしまったのであろうか。確かに、トランス = シベリア芸術祭の引っ越し公演ということなら、次回はこのような夢の共演ではなく、個別の音楽家によるコンサートでもよいかもしれない。ノヴォシビルスクの動物園で生まれたホッキョクグマの赤ちゃんの映像を見つけたが、よく考えると、ここの動物園なら、そのままホッキョクグマが生活できる気温なのだろう。高温多湿の夏がある日本では、そうはいかない。音楽も同じように、日本で日本人の手によるだけではできないことを、是非是非お願いします!!
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# by yokohama7474 | 2016-06-19 23:28 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ウラディーミル・アシュケナージ指揮 NHK 交響楽団 (オーボエ : フランソワ・ルルー) 2016年 6月18日 NHK ホール

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今月、つまり今シーズンの NHK 交響楽団 (通称「N 響」) 最後の定期公演のシリーズに登場するのは、桂冠指揮者のウラディーミル・アシュケナージ。2004年から 2007年まではこのオケの音楽監督を務めた名指揮者である。1937年生まれなので、えっ、ということは来年 80歳??? なんということ。小柄なからだを一杯に使って指揮をする姿は以前から全く変わらないし、指揮台とステージの袖の間を小走りで往復するのもそのままだ。上の写真で見る通り、60代と言っても通りそうな若々しさではないか。現在ではシドニー交響楽団や EU ユース管弦楽団の音楽監督も既に退いており、各地で客演指揮を続ける一方、つい先日も息子ヴォフカとのピアノ・デュオ・コンサートを日本で開くなど、過度にならない程度の (?) ピアノ演奏も続けているようだ。また今回、N 響との一連の共演を終えると、熊本地震復興のチャリティコンサートとして、洗足学園音楽大学の学生オケを指揮する予定になっている。

ただ、これだけ指揮者として充分な実績のあるアシュケナージも、日本に限った話であるか否か分からぬが、指揮者としてよりもピアニストとしての評価の方が未だに高いような気がするのは私だけであろうか。正直に言ってしまうと私自身も未だにそうで、情報量が多いのにピュアでクリアな音質の、彼のあの驚くべきピアノに比べれば、指揮の方は世界最高峰というイメージがない。こういう姿が懐かしい。
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いやいや、でもそれは聴衆な勝手な思いというもの。芸術家にはそれぞれ目指すものがあり、命を賭けて音楽を奏でているのだ。音楽家として間違いなく現代最高の人物の一人であるアシュケナージの音楽に、虚心坦懐に耳を傾けようではないか。今回の曲目は以下の通り。
 リヒャルト・シュトラウス : 交響詩「ドン・ファン」作品20
 リヒャルト・シュトラウス : オーボエ協奏曲二長調 (オーボエ : フランソワ・ルルー)
 ブラームス : 交響曲第 3番ヘ長調作品90

実にオーソドックスな内容である。ドイツ物の伝統を持ち、現在の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィとも R・シュトラウスの録音をシリーズで始めた N 響としても、桂冠指揮者との協演はまた違った味があることだろう。そんな期待に応えるかのように、最初の「ドン・ファン」は N 響らしい重心の低い演奏であったが、アシュケナージのいつもの懸命かつ丁寧な指揮ぶりで、オケも気持ちよさそうに演奏していた。もちろんアシュケナージであるから、驚くような仕掛けなど何もない。ただオケの力を前に推し進める手助けをしているような指揮と言えると思う。シュトラウスの絢爛たるオーケストレーションが炸裂、というイメージではなく、鳴るべき音がきっちり鳴っているという堅実なタイプの演奏であり、これがアシュケナージの音楽なのであろう。一定の充足感を胸に拍手をしていると、舞台下手奥にピアノが置いてあるのを発見。ん? 今日の曲目の編成にはピアノなど含まれていないはず。何か別の曲のリハーサルにでも使用してそのままになっているのだろうか。

2曲目も同じ R・シュトラウスのオーボエ協奏曲。ソロを吹くのは、現代を代表するオーボエ奏者である、フランス人のフランソワ・ルルー。
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一般のレパートリーで有名なオーボエ協奏曲と言えば、まずモーツァルトとこの R・シュトラウスということになるだろうし、私も録音ではそれなりに親しんで来た曲である (昔、ベルリン・フィルの首席奏者であったローター・コッホのソロをカラヤンが伴奏した録音もあった)。だが、この曲を過去に実演で聴いたことがあるか否か記憶が定かではなく、そしてこれがいつ頃書かれた曲であるのか、私はこれまでイメージしたことがなかった。しかるに今回のプログラムで、1945年、終戦直後に書かれたのだということを知り、不明を大いに恥じたのであった。シュトラウスの場合、ホルン協奏曲は 2曲あって、若書きの 1番と晩年の 2番の差というものがあるが、オーボエ協奏曲はこれ 1曲きり。重苦しいが薄日差す瞬間もある弦楽合奏のための「変容 (メタモルフォーゼン)」から、あの絶美の歌曲集「4つの最後の歌」への流れの中に位置する、晩年の作品であったとは。そう思って聴くと、これらの曲を思わせる旋律が一瞬出てくる瞬間が何度かあり、ただ古雅なだけの音楽ではないと再認識した。ルルーは体を大きく使って演奏し、危なげないテクニックで全曲を吹き終えた。そして聴衆の拍手の中、思わぬ事態が発生したのだ。先に私が不審に思った舞台下手のピアノが、スタッフによって舞台前面に移動させられているではないか。えっ、ここでピアノを弾くなら、まさか楽団所属のピアニストではあるまい・・・。そうして、ソロのルルーが大きな手振りで舞台袖から呼び出したのはやはりアシュケナージ。聴衆はどよめきの声を上げ、満場の拍手喝采だ。そうして始まったアンコールは、グルックの「精霊の踊り」。ルルーの表情豊かなオーボエを、アシュケナージのピアノがしっかりと支えてさすがである。小曲の伴奏だから、技巧を見せつけるような場面はなかったものの、図らずも「ピアニスト・アシュケナージ」を聴くことができた聴衆は大喜びだ。

コンサートには流れというものがあって、後半のブラームスは、このような盛り上がったムードの中で演奏されることで、音楽に熱が入って行くこととなった。この曲の冒頭は、音がうぁっと膨らんで雪崩れ込むようになる点が、最初の「ドン・ファン」と似ている。演奏も「ドン・ファン」同様、冒頭から熱狂の嵐ということではなかったが、質感のある音であり、音楽の進行につれ、徐々に音の劇性が増して行ったと思う。また、それ以降の楽章でも、いずれも後半にかけてパッションが濃くなって行ったように思われて、興味深かった。有名な第 3楽章のロマンティックなメロディも、下品になることなく、また重くなりすぎることもなく朗々とチェロが歌っていて印象的。強烈な個性が聴かれるというわけではないが、実にオーソドックスに丁寧に、ブラームスの練りに練られたスコアが音となって放たれることで、心に残る演奏となったのである。

アシュケナージの音楽は、恐らくこれから面白くなって行くのではないだろうかと、ふと思った。ピアノを弾いたら聴衆が喜ぶという状況は、きっとご本人も複雑な心境ではないかと思うが、ピアノも指揮もすべて、80に向かって、またそれを越えて、さらに深化して行くことを期待したい。これは数年前の共演の写真 (チェロの木越さんがまだいた頃)。来シーズンの登壇の予定はないようだが、これからも N 響の指揮台でお会いできることを楽しみにしております。
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# by yokohama7474 | 2016-06-19 00:02 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

素敵なサプライズ ブリュッセルの奇妙な代理店 (マイク・ファン・ディム監督 / 原題 : The Surprise)

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この映画は予告編を見て少し気になっていたのだが、この「素敵なサプライズ」という邦題にどうもなじめず、結局劇場に足を運ぶことはしないまま日数が経ってしまっていた。何せ都内では 2軒の映画館にしかかかっていない。神奈川では 1軒だけだ。なかなか時間を見つけるのが難しい。ところが、家人が先に見て、これは絶対お薦めだというので、まあそこまで言うなら騙されたと思って見てみるかと、半信半疑ながらも(笑)、重い腰を上げたのであった。

ここで突然話は変わるが、オランダ映画を見たことがある人が、日本にどのくらいいるだろう。かく申す私も、オランダの絵画やオランダのオーケストラなどはこのブログでもあれこれ語って来たものの、また、オランダを舞台にした映画なら幾つか知っているものの、この国で制作された映画となると、一本も思い出すことができない。しかるにこの映画は、その珍しいオランダ映画なのである。なので、若干先走って言ってしまうと、もう少しでこのホンワカラブストーリー系の邦題の雰囲気に騙されて、珍しいオランダ映画の佳作とのめぐり合わせを逸するところであった。人生やはり、周りの人の意見に耳を傾けた方がよい。私がもし、家人の推薦に耳を貸さずに「そんな映画よりも、『64 (ロクヨン) 後編』の方がよい!!」と突っぱねていれば、一生この映画を見ることはなかったかもしれない。あ、もちろん、「64 (ロクヨン)」はひとつの例であって、なんら悪意はないので念のため (悪意どころか、見たかった前編を見損ねて、まさかこれから後編だけ見るわけにも行かず、悔しい思いをしているところ)。

オランダは何度も訪れているし、オランダ人の知り合いもそれなりにいるが、独特の雰囲気がある国だ。新興プロテスタント国として、もともとの支配者であるスペインから 17世紀に世界の覇権を奪取し、多くの埋め立て地を含む平地だけからなる小さな国土でありながら、他国と他国の間に入る貿易によってみるみる富を蓄積した国。しかしながら、やがて産業革命を成し遂げた英国に、あっという間に出し抜かれてしまった国。それゆえ彼らの多くは、今や一小国となってしまった自国の現状を淡々ととらえている一方、経済も文化も自国だけで完結するとは思っていないようで、未だに他国との関係を非常に重視しており、全国民 (かどうか知らないが、ほぼそうだろう) が全く問題なく英語を喋る。日本人のように、自国民同士で他国語で喋ることを気まずく思うこともない人たちだ。文化的には非常に豊かな国であることは、改めて説明するまでもないだろう。
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この映画の冒頭に日本語で、「この映画には数か国語が使われており、一部の言語の字幕には色をつけるなどして違いが分かるようにしています」といった珍しいメッセージが出てくる。どこに色つき字幕が出てくるかを明らかにするとネタバレになってしまうのでここでは伏せるが、これはなかなかシャレた説明である。実際、オランダ語がメインで出来ている映画であるが、舞台となる「奇妙な (旅行) 代理店」はベルギーのブリュッセルにあるという設定であって、英語はもちろん、フランス語やドイツ語、また私には分からないが、もしかするとフラマン語なども使われているのかもしれない (?)。主人公たちが自然に言語をスウィッチする点がまずオランダらしい。

ストーリーは、あるトラウマにとらわれたオランダの中年貴族 (独身男性) が老いた母を看取った後、自殺願望に取りつかれて「奇妙な代理店」にある依頼をするが、同じ「代理店」を起用した女性と意気投合し、生きることの意味に自然に目覚めて行くという展開。おっとそんな書き方をすると、私自身でこの邦題に疑問を呈しておきながら、その邦題の雰囲気と同じように、ホンワカ恋愛物だと思われてしまいますな (笑)。実際のところこの映画は、ホンワカ恋愛物とはほど遠く、大変にブラックな要素に満ち満ちていて、その意味で、映画の流れのセンスは抜群であると思う。例えば冒頭のシーンでは主人公がヘッドフォンでモーツァルトのレクイエムの冒頭部分、「レクイエム・エテルナム (永遠の安息を)」を聴いているが、その隣の大きく立派なベッドでは、彼の母親が実際に死の床に伏しているというブラックぶり。しかも、その母親がすぐに死んでしまうのか否かという点で、その後のシーンではなんとも軽妙な呼吸が描かれているし、人生とは誠にままならぬものだという感覚がよく表現されている。実はモーツァルトのレクイエムは、その後も「代理店」で流れる広告映像の BGM として同じ「レクイエム・エテルナム」が使われているほか、ちょっと息詰まるトラックの暴走のシーンでは、同じ曲の「コンフターティス (呪われし者)」が使われている。その暴走トラックを眺める主人公たちの映像はこちら。実はこの後に切り返しショットが出てくるのだが、ストップモーションでありながら女性の服が風に揺れているという場面は、なんともいいシーンになっている。おっと、またまたホンワカ恋愛物だと誤解される表現だ。
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モーツァルトが出たついでに書いてしまうと、このレクイエムが死への暗い熱情を表すとすると、その反対の、生の躍動を表す音楽は、同じモーツァルトによる有名なディヴェルティメント (喜遊曲) ニ長調K.136の冒頭部分だ。私の大好きなイ・ムジチ合奏団の録音のジャケットをご紹介しておこう。明るい疾走感のある素晴らしい曲。
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よい映画には、忘れられないイメージの断片が多くちりばめられているもの。これはまさにそんな映画である。主人公が衝撃の場面を目撃する断崖のシーンで突然雨が降るのに、その後すぐにあがってしまったり、「代理店」の受付や立派な建物の受付のセキュリティで、複数の言語での呼びかけが必要であったり、広大とはいえ自身の屋敷の敷地内ならともかく、車で移動する主人公がパジャマ姿であったり。
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また、ホテルでドキドキしながら踊りの練習をする主人公のステテコ風の下着の独特な作りが、16世紀ベルギーの画家ブリューゲルの描く農民のはいているものにそっくりだったり。この地方独特の下着なのだろうか。日本ではこれ、売っていないでしょ (笑)。
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それからなんと言っても、執事役のおじいさん (演じるのは 1946年生まれ、ベルギー人のヤン・デクレール) がいい味出している。
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ネタバレになるので詳細は書くことができないが、この人が最後に出てくる場面で描かれる彼の「選択」は、なんとも胸が熱くなるものだ。ここに至るまでの展開もかなり凝っているが、でもその凝り方が嫌味ではなく、なるほどと思わせるものがある。脚本もよく練れているが、それをうまい流れで演出している。

このような優れた映画を撮った監督は誰かというと、ほかでもない (って、本当は初めて聞く名前である) マイク・ファン・ディム。1959年生まれのオランダ人だ。彼の初監督作品は、1997年の「キャラクター / 孤独な人の肖像」という作品で、なんとそれはアカデミー賞外国映画賞を受賞。その後ハリウッドから多くのオファーを受けるが断り (例外として、あのロバート・レッドフォードとブラピ主演の「スパイ・ゲーム」の監督を務めるはずだったが、自分の思うように作れないため降板。トニー・スコットが監督した)、母国オランダで CM を中心に活動を続けてきたという。この映画のプログラムに掲載されているインタビューに面白い言葉がある。

QUOTE
アカデミー賞受賞後はハリウッドからオファーが殺到しましたが、興味が湧く企画はほとんどありませんでした。(中略) あの頃の経験を振り返ると、ミシュランの星を獲得したのに、ハンバーガーを作れと頼まれたようなものですよ。
UNQUOTE

ヨーロッパ人が米国の分業制を皮肉る言葉としては、なかなかに気が利いているではないか。そしてこの作品が、ようやく長編映画の第 2作。世界にはいろいろな才能があるものだ。これは主人公 2人に演技をつける監督。
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このような大変ユニークで優れた映画であったわけであり、見終ってみると、このホンワカな邦題も、まあよいではないかと思われるから不思議だ。監督自らが喩える「ミシュランの星つき」の手腕は、伊達ではありませんね。彼の次回作がいつになるのか分からないが、記憶にとどめておきたい映画であった。

# by yokohama7474 | 2016-06-18 01:58 | 映画 | Comments(0)  

ガルムウォーズ (押井 守監督 / 英題 : Garm Wars: The Last Druid)

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押井守の活動をどのように総括すればよいのだろうか。著名な映画監督であるが、もともとアニメの人である。映画でも、アニメの「うる星やつら」シリーズが出世作ということになるのだろう。私の学生時代、これらの作品や「天使のたまご」を絶賛する映画通が身近にいたが、私自身はどうもアニメは苦手で、見たいとも思わず、その後「機動警察パトレーパー」「攻殻機動隊」などのシリーズにもとんと縁がなかった。だが、ひとつの作品が私の押井守観を一変したのだ。その作品は 2004年の「イノセンス」。普段同じ作品を二度劇場で見ることは滅多にないのだが、この作品には衝撃を受け、一度見ただけでは飽き足らず、再び劇場に通ったのである。有機物と無機物の境界が曖昧になる世界、命あるものと命なきものの差が危うくなる世界は、古今東西の芸術分野のひとつの怪しくも奥深いテーマであり、私もその分野には一方ならぬ興味がもともとあったので、大音響で鳴り響く川井憲次の情緒的な音楽ともども、その豊かなイマジネーションにガツンと脳天をやられてしまった。この作品をきっかけに、制作裏話を書いた本を読み、押井の霊感の源泉のひとつとなった、世紀末の有名なアンドロイド小説であるヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイヴ」も読んだし、作中でアンドロイド製造会社の名前として出て来る「ロクス・ソルス」という小説も読み、さらにはその作者であるレーモン・ルーセルの評伝までも読んだものだ。そう、この「イノセンス」には、それだけ私の琴線に触れる衝撃の作品だったのだ。
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ほかに私が見た押井の映画には、「アヴァロン」がある。これは実写もので、てっきり「イノセンス」より後に見たと思っていたら、今調べたところ、こちらは 2001年の制作で、「イノセンス」より前であった。だがいずれにせよ私が覚えているのは、このポーランドで撮影された映画がそれはもう罪なくらい面白くなく、退屈で仕方がなかったことなのである。そうして時は流れ、昨年公開していた「東京無国籍少女」もあまり話題にならずにいつの間にか終了してしまっていた。そして今年はこの映画であるが、ふと気づくと既に終了間近。これはやはり、久しぶりに見ておきたい。

この映画、そもそもの疑問があって、劇場によって英語版と日本語版がある。私の場合はやはり、オリジナル言語で作品を体験したいと思っていて (その意味ではオペラも同じ)、外人が出演しているらしいこの映画の場合はやはり英語版で見たかったのだが、日本語版に比べて英語版の上映頻度が少ない。そして段々上映終了が近づいてくると、もう日本語版しか上映しなくなっていた。私がやむなく見たのはこの日本語版であったが、まあ、もともとアニメの監督ということで、この作品もアニメと同等と思えば、言葉の違和感は乗り越えられるだろうと自分に一生懸命言い聞かせたものだ。だが実は Wiki で調べてみると、英語版と日本語版の間には、ストーリーの違いすら存在するのだ!! おいおい、主役の君は、一体どんな言葉で誰に向かって話しかけているんだい。
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そのようにして日本語版を見たこの映画。感想を要約するなら、作り手が表現したいイメージは分からないではないものの、いかんせん、国際的にそのイメージを世に問うというには、いろんな意味で課題があるのだなぁと思ったのである。調べてみるとこの映画、15年くらい前に企画が持ち上がったものの、その後それが頓挫して、今般ようやくかたちになった由。その意味では、押井守執念の企画ということなのだろう。
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この映画のプログラムには押井のインタビューも載っていて、まあ「押井」さんだけに内容も「惜しい」というオヤジギャグを飛ばす気もないが、正直なところ、彼の思いが作品に結実しているとは到底思えない。例えば、最大のテーマは「日本人にファンタジーが作れるのか」ということだと語っているが、客観的に見て、残念ながらこの映画からイエスという答えは見出しにくい。例えばスター・ウォーズの連作を見るときに、必ずしもすべてが傑作ではないにせよ、もともとジョージ・ルーカスの頭の中にあった広大な空想上のイメージを、大勢の人数で分かち合うことができたからこそ、一貫してルーカルの夢が現実化したような印象を受けるのではないか。そこにはアメリカの合理的な分担制も大きく関係しているに違いない。その点この映画は、大変残念ながら、ピースピースには面白いイメージがあるにせよ、全体として現実とは違う世界でのリアリティがあるというレヴェルには達していないと思う。その点においては、やはり日本の映画作りの人材不足、予算不足は否めないなぁと、なんとも淋しい思いを抱いたのである。

それから、終始一貫して、映像の箱庭的なことには少々参った。誰も、フィルムを現像した昔の写真が色あせたような風景は見たくないだろう。また、人物を捉えるにも、例えばあえて目の回りを暗くして表情を曖昧にしているシーンもあり、息苦しいことこの上ない (その昔小津安二郎は、原節子の彫りの深い顔を美しく見せるため、わざわざ目のところにだけ光を当てたという逸話と対照的だ)。この手法は、アニメであればそれほど気にしないかもしれないが、生身の俳優を使った映画では、作り手が思っているような効果は出ないのではないか。また、風景を扱っている箇所としては、後半の森のシーンを例に採りたいが、その場面における映像の著しい人為性が、なんともせせこましい印象を免れず、本当にがっかりした。テーマが壮大であるだけに、観客にそのように思わせるだけで、残念ながらもうこの映画はうまく行っていないという評価になってしまっても致し方あるまい。

もちろん、上にも書いた通り、描かれている世界のイメージ自体には、時折は非凡なものを感じたのも事実。大詰めに出て来るこのようなイメージの終末観には、何か人の心の根源に訴えかける要素があったと思う。
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それから、私が心酔する「イノセンス」と共通するテーマが扱われている面もあり、その点は素直に嬉しいと思った。例えば、映画の中で重要な役割を果たすバセット・ハウンドに関して、その「臭い」が生の象徴のように描かれている点、全く「イノセンス」と同じである。これは絶対、押井自身のお気に入りの犬なのであろう。上に掲げた「イノセンス」のポスターにも登場している。
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加えて、ここでも命なきものの神秘、あるいは人智を超えた創造主の存在の神秘が、人形に仮託されている。このようなイメージは妙に人の心に残るものだ。
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この映画はかなりカナダでロケしている模様で、主要な役柄の役者はみなカナダ人である。正直、彼らの演技が素晴らしいとは思えず、むしろ無名性による息苦しさ (セットとの相乗効果!) を感じざるを得ない。だが、この映画を一緒に見た会社の同僚からの指摘 (ありがとうございます!!) で気づいたことには、以下のおじいさん役の俳優、名前をランス・ヘンリクセンというが、今から 30年前、ジェームズ・キャメロン監督の「エイリアン 2」に出演していたのだ。下の「エイリアン 2」の写真は、本物の映像ではなく、最近発売されたフィギュアである。いやー、でも確かにこんな感じでしたね (笑)。
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まあそんなわけで、厳しく批評しながらも、何か気になるシーンのあれこれを語りたくなる、そんな映画であったと思う。世界的に名の知れた押井ですら、やりたいことが充分にできていないとすると、日本人が世界で通用するファンタジー映画を撮れるのか否かという点については、課題がいろいろあると思わざるを得ない。だがともかく、自らの作品を世界に問うという気概は必要であると思うので、ただ作品を批判するだけでなく、どうすればもっとよい作品を撮ることができるのか、観客の立場でも考えて行きたいとは思う。

# by yokohama7474 | 2016-06-16 01:08 | 映画 | Comments(0)  

スノーホワイト 氷の王国 (セドリック・ニコラス = トロイヤン監督 / 原題 : The Huntsman ; Winter's War)

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2012年に制作された「スノーホワイト」という映画の続編である。その映画、どうやら白雪姫の裏話のような映画であったが、私はそれを見ることができなかった。だが、基本的に空想物語系には興味があり、伝説やおとぎ話の裏にある謎といったものにも心を惹かれるので、この映画を見に行ったのである。以前見た「マレフィセント」は結構楽しんだが、この映画も似たような雰囲気なのだろうか。

だが正直なところ、この映画には親指を立てるわけにはいかなかった。1作目を見ていないとストーリー展開も納得できないし、いかに私が饒舌でも (笑)、この映画を語る言葉にどうしても限界が生じてしまう。そもそも 1作目を見ていないと、劇中で名前は言及されるがここには登場しないスノーホワイトなる人物が白雪姫であると、どうして分かろう。解説によると、ここでシャリーズ・セロン演じる邪悪な女王ラヴェンナは、1作目でスノーホワイトに退治されるらしく、この映画のほとんどはそれに先立つ話。だが最後の方にはラヴェンナが復活するというシーンがあり、ラヴェンナが死亡する 1作目よりも後の話。このように時間軸もややこしい。また、クリス・ヘムズワース演じるところのエリックという役は、1作目でも活躍したというし、ドワーフ (って、「ロード・オブ・ザ・リング」特有のキャラではないのだね) を演じる役者も 1作目と共通しているらしい。そんなわけで、1作目を知っている人ならともかく、何も予備知識のない人が見ると、あちこちで問題発生。キャラクター同士の関係もよく分からず、また、誰が何のために戦闘しているのか、なぜ原題が "Huntsman" というのか、すべてチンプンカンプンだ。いかにシリーズ物とはいえ、少しそのあたりの配慮が欲しかったものだ。それからこの映画への小さな不満は、アクションシーン。いわゆる殺陣だが、あまり鮮やかには見えないのはどうしたことだろう。そういう小さな不満の積み重ねが、登場人物への感情移入も阻害してしまうのは残念なことだ。監督はこの作品がデビューとのことだが、そんなことも関係しているのだろうか。

あまりけなしていてばかりいないで、少しよいことも書くとすると (笑)、やはり 3人の女優であろうか。なんと言ってもここでの主役はこの人、ラヴェンナの妹、氷の女王フレイヤを演じるエミリー・ブラントだ。
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私はこの女優さんの優しい顔が好きで、「ヴィクトリア女王 世紀の愛」での女王の若くけなげな様子、「オール・ユー・ニード・イズ・キル」での攻撃的なかっこよさ、「イントゥ・ザ・ウッズ」でのミュージカル女優ぶりなど、これまで様々な役をこなすのを見てきたが、今回はコスプレか (笑)。不幸な過去と同時に、閉ざされた心の中に温かさを持つ氷の女王。なかなかの難役であっただろう。欲を言えば、時に優しさがほの見えるのは、この場合若干のマイナスかも。

そしてその姉、邪悪なラヴェンナを演じるのは、シャリーズ・セロン。この人の作品による過激な変身ぶりには定評あるところだが、ここでも楽しんで演じているのがよく分かる。もしかして楽しみすぎかも。
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それから、エリックと恋仲の女戦士、サラを演じるのは、ジェシカ・チャステイン。「ゼロ・ダーク・サーティ」「オデッセイ」「クリムゾンピーク」など、彼女も様々な役柄で大活躍。「ハンガー・ゲーム」のカットニス役ではありません (笑)。
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この 3人の女優の存在感はそれぞれに優れたものがあって、撮影現場では、エリック役のクリス・ヘムズワースは彼女らの弟のようにおとなしかったという。私は、「マイティー・ソー」の最初の作品では彼をあまりカッコいいとも思わなかったが、「ラッシュ / プライドと友情」あたりから、なかなかよいと思うようになった。今後もますますの活躍が期待できよう。
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ただ、このエリック役が、やたらと「愛はすべてに勝つ」という信念を口にするのだが、昔流行った歌謡曲でもあるまいに、そんなことを繰り返すとちょっとウソっぽさを感じてしまうのが、現代人の悲しい性。もう少し大人の鑑賞に堪える描き方もあったように思うが、いかがなものだろうか。

そんなこんなで、あまりよいことを書けないことは申し訳ないが、まだ 3部作の 2作目ということだ。遡って 1作目を見て、そして来るべき 3作目も見てみれば、何かこれまで分からないことが分かってくるのかもしれない。もしかしたらそのとき私は、素直に「愛はすべてに勝つ」と唱えているかもしれない (笑)。

# by yokohama7474 | 2016-06-13 23:56 | 映画 | Comments(1)