ピエタリ・インキネン指揮 日本フィル (ヴァイオリン : 庄司紗矢香) 2016年 4月22日 サントリーホール

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フィンランドからは多くの名指揮者が出ている。物故した人から若手まで、あるいは女性を含めて様々な個性があるが、そもそも国自体が西欧諸国と違ってマイナー感を免れないゆえに、たまたまこの国が輩出した大作曲家シベリウスの演奏というくびきのもとでの活動を多かれ少なかれ余儀なくされるのである。従って、フィンランド人指揮者が、シベリウスではない様々な音楽を指揮するということは、その土地またはオーケストラで広く支持されているという意味を示すのだ。ここに一人のフィンランド人指揮者がいる。ピエタリ・インキネン。1980年生まれだから今年 36歳になる。
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現在、プラハ交響楽団の首席指揮者であり、この日本フィル (通称「日フィル」) の首席客演指揮者。そして来シーズン、今年 9月からは日フィルの首席指揮者に就任する。この人の活躍ぶりによって東京のこれからの音楽界の活気が変わってくると言ってもよいだろう。現在シェフが空席になってしまっている東京フィルを除いて、東京の主要 7オケのシェフはなかなかの顔ぶれであって、今年という意味では、新日本フィルの上岡敏之とこの日フィルのインキネンが新たな就任なのである。そしてそのフィンランド人指揮者、インキネンが今回指揮するのはなんと、イギリス音楽だ。

 ブリテン : ヴァイオリン協奏曲作品15 (ヴァイオリン : 庄司紗矢香)
 ホルスト : 組曲「惑星」作品32 (合唱 : 東京音楽大学)

今回の来日でインキネンはヴェルディのレクイエムも採り上げているはずなので、もはやシベリウスの呪縛はない。ってまあ、首席客演指揮者かつ次期首席指揮者がシベリウスばかり採り上げるわけにはそもそもいかないのだが (笑)。

上に掲げたポスターにいろいろ謳い文句が記載されているが、今回のソリスト庄司紗矢香の紹介に、「インキネンと同門!」とある。庄司はいわずとしれたケルンの名教師ザハール・ブロンの教え子 (ほかにもレーピン、ヴェンゲーロフ、樫本大進等の綺羅星のごとき教え子たちがいる) だが、実はピンキネンもそうらしい。もともとヴァイオリンを学んでいて、ブロンのもとにいた 20年ほど前、ほんの少女の頃の庄司の才能に驚いていたということで、今回東京での初共演が叶ったとのこと。
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今回庄司が弾いたのは、あまり演奏されることのないベンジャミン・ブリテン (1913 - 1976) の協奏曲。私も、サヴァリッシュが最後に来日して N 響を振ったときにフランク・ペーター・ツィンマーマンのソロで聴いたのが唯一の生演奏体験。そのときに予習したヴェンゲーロフとロストロポーヴィチの CD を引っ張り出して再度予習の上、この演奏会に臨んだ。この曲はブリテン 25歳の若書きであり、スペインのヴァイオリニスト、アントニオ・ブローサがジョン・バルビローリ指揮ニューヨーク・フィルの伴奏で 1939年に初演している。実はこのブローサなるヴァイオリニストとブリテンは、その 3年前の 1936年にバルセロナで共演しており、そのときの音楽祭の一連の演奏会のうちのひとつが、ブリテンが深く尊敬していたというアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲の初演であったとのこと (尚、ベルクのコンチェルトの初演者はルイス・クラスナーという別のヴァイオリニスト)。このベルクの白鳥の歌に感動したブリテンは、自分でもヴァイオリン協奏曲を書きたいと思い立ったのであろうか。この曲はベルクの曲とは全然似ていないが、唯一、緩 - 急 - 緩という構成だけは似ている・・・かなぁ (笑)。ところで年号を見て気づくのは、1936年といえば、スペイン内戦勃発の年ではないか。反戦主義者であったブリテンは、この曲にそこはかとないスペイン情緒を込め、静けさと闘争を経て祈りに至るという複雑な情緒を盛り込んだ。庄司は珍しく譜面を置いての演奏であったが、そのような複雑な情緒を、いつもながらの強い集中力で表現していた。第 2楽章などは彼女の得意とするプロコフィエフを思わせて実に鮮やかだったし、カデンツァでの弦の唸りも見事。また、聴かせるべきところは極上の美音を響かせる。こんな自在なヴァイオリンは、そうそう聴けるものではないだろう。インキネンはここでは脇役に徹していたが、大編成のオケをコントロールして危なげない。楽団がリハーサルのときのこんな和やかな写真を公開している。今回のコンサートマスターは、千葉清加さん。お、この人もサヤカさんなのだな。
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そして庄司はアンコールを演奏したが、何やら聴きなれないスペイン風の曲。アンコールの表示を見て驚いたことには、それはスペイン内戦時の軍歌で、「アヴィレスへの道」という曲。ネット検索してもそれらしい情報は出てこないが、まさにこのコンチェルトにふさわしいアンコールであったことになる。その研究熱心さに改めて脱帽だ。

そして後半は、ホルストの「惑星」。これも、有名曲でありながら実演ではあまり接する機会のない曲だ。ここでインキネンは本領発揮。7曲からなる組曲で、実に色彩感豊かな曲であるがゆえに、まずは冒頭の「火星」で聴衆を圧倒する必要があるが、早めのテンポでグイグイ進めるインキネンは、先輩の大指揮者サロネンすら思わせる切れのよい指揮ぶりで、日フィルから輝かしい音を引き出した。そう言えばこの「火星」は、作曲者ホルストが迫りくる第一次世界大戦を予感して書いた予言的な作品とも言われる。今回の 2曲はいずれも、戦争の惨禍と関係しているのだ。冒頭のポスターに、「戦慄の時代が生んだ祈りのコンチェルトと壮大な音宇宙」とあるのは、そういう意味だったのだ。日フィルさん、なかなかしゃれたコピーを考えますなぁ。私が前回インキネンを聴いたとき (昨年 11月 8日の記事) には、最強音を聴けなかったもどかしさを書いたが、その点、今回は期待通りの素晴らしい最強音を聴くことができ、私の親指はぐっと立ったのである。このような音楽を聴かせてくれるなら、彼の存在によって東京のクラシック音楽シーンが一層面白くなるだろう。

終演後にはまたインキネンのトークがあった。いわく、今回の演奏会は日フィルと最初のことと最後のことが同時に起こったと。つまり、イギリス音楽を指揮したのは最初だったし、首席客演指揮者としての演奏は最後であったという意味だ。それからは上記の庄司についての話と、今年 9月に首席指揮者に就任することについての話。彼はこの年で既にシドニーでワーグナーの「指環」全曲を振った実績があるらしく、そのとき共演した歌手たちと、9月27日にサントリーホールで「ジークフリート」「神々の黄昏」を演奏するのが、今回の日フィルの首席指揮者披露公演になるらしい。なるほど、こうなってくるとシベリウス、全然関係ないですね!! 前任のアレクサンドル・ラザレフも面白い指揮者であったが、レパートリーがロシア物に偏重していたように思う。かつて「ロシアのカルロス・クライバー」と呼ばれた爆演系指揮者、ラザレフも、後任インキネンによる日フィルのさらなる発展に期待していることだろう。
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# by yokohama7474 | 2016-04-23 01:11 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

安田 寛著 : バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本

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このブログであれこれクラシック音楽についての記事を書いている私であるが、何を隠そう、楽器は何もできない人間なのである。音楽の楽しみの本質は、自分でそれを奏でることであることは充分理解しているつもりであり、その限りにおいて、自分で演奏もしない人間がいかにエラそうなことをほざいても、所詮はその説得力に限界があると思う。だがその一方で、音楽がごく一部の専門家のものではなく万民のものであるとすれば、どんな人間でも、音楽について語ることができるはずである。それが許容されることこそが音楽の素晴らしさなのだろうと思う。

ピアノを習ったことのない私にとっては、バイエルの教則本の内容がいかなるものであるかを知る由もない。だが、幼少の頃にピアノを習う人が、まずはこのバイエルから入って、ブルグミューラーやらツェルニーに移って行くということはもちろん常識として聞いたことがあり、このバイエルの教則本が全然面白くないという話もよく耳にする。だからバイエルの名前は、強制された習い事の象徴のようなイメージがあり、であるからこそ、一体それがどういうものであるのか、また、一体どういう人がそれを作ったのか、なぜそれほどメジャーであるのか、なんとも気になるのである。ふと立ち寄った書店でこの本を見かけたとき、ちょっと読んでみるかと思ったのはそのような背景による。結論から申し上げれば、この本は滅法面白く、著者の実体験を書き綴っているだけに、下手なミステリーよりもよっぽど楽しめるのである。クラシック音楽に全く関心のない人にはお勧めしないが、少しでも興味がある人には、読んでみて絶対損はないとお勧めしたい。これらは日本で出版されているバイエル教則本の例。
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著者は、日本でピアノの初期教育の聖典と言われてきたバイエルが、最近では本場ドイツをはじめとする世界のどの国でも時代遅れとなっており、日本でもその意義を疑問視する声が増えてきていることを批判的に紹介。また、この教本を作ったバイエルという作曲家についての伝記的事実がほとんど全く知られていないことに着目し、一体バイエルとはいかなる人だったのか (もしかすると実在しなかったのか、あるいは他の作曲家の偽名か、はたまた複数の作曲家が使用したペンネームなのか)、またその教本がいかにして普及し、誰が日本に紹介し、誰が称揚したのか、という点について、凄まじい執念で調査を始める。いや実際、なぜそこまでと思えるほどの執念に、読み進むほど圧倒されるのだ。そして、謎の真っただ中に無謀にも (?) 飛び込んで行き、欧米のあちこちを訪ね歩く著者が、内外の多くの協力者や信じられないような運命的偶然に恵まれて道を拓いて行く展開に、ページを繰るのももどかしいほどの興奮を覚えるのである。何より、真摯な姿勢を自ら揶揄するようなユーモアのセンスが常に漂っているところがよい。

この本の著者、安田寛 (ひろし) は 1948年生まれなので今年 68歳の音楽学者。国立音楽大学の修士課程を修了、各地の大学で教鞭を取り、現在は奈良教育大学の名誉教授。ほかの著書には日本の唱歌のルーツを讃美歌に結び付けるような内容が見受けられるので、このバイエルの探求も、結果的にはその流れの中にある。ライフワークということなのだろう。

そのライフワークにかける著者の執念がたどり着いた結論は、なんとも達成感のあるものである。その箇所に至ると、見も知らぬ著者に対して握手を求め、「本当によかったですね」とねぎらいの言葉をかけたくなるのである (笑)。それから、その艱難辛苦につきあった挙句、全編の最後に記述されたエピローグにおいて、読者はインターネットの利便性を思い知るとともに、その逆説として、利便性度外視で情熱を傾けて多くの徒労を経ながら真実に近づくという行為の尊さに思い至る。ここでネタバレは避けるが、この本を読まれる方には、その表現があながち大げさでないことをお分かり頂けると思う。願わくばこの本の著者のごとく、真実を追い求める真摯さを心のどこかで持ち続けたい。そして大きな仕事を成し遂げたい。読む人にそのような思いを抱かせる書物であり、その点では非常に勇気づけられる。一方で、人間の営みが限られた生の期間にのみ行われることに思い至り、一縷の無常観とともに本を置くことになることも事実。そしてしばらくすると、正が限られているからこそ、真摯な姿勢で生きることに意味があるのだということにも気づかせられるのだ。

それにしても、何事にも歴史があることを思い知る。星の数ほどの人間が生まれ、死んで行く。この世に痕跡を残す人もいれば全く残さない人もいる。痕跡を残しても歴史によって忘れられて行く人もいる。この本の本当の感動はそこにある。私がここで唐突に思い出すのは、名匠ヴィム・ヴェンダース監督の映画、「パレルモ・シューティング」だ。
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この連想を突飛に思われる方もおられよう。実際、この映画はバイエルとは縁もゆかりもない (笑)。あのデニス・ホッパーの最晩年の出演作であるこの映画、そのホッパー演じる死神が、これまでにこの地上で生きた人たちの長い長いリストを見せるシーンがあって、そこには戦慄するような歴史の重さと残酷さがある。私がこの「バイエルの謎」を読んで感じた深淵は、そのような感覚に極めて近いものであった。相変わらず我田引水、牽強付会の暴論であるが (苦笑)、本当のことだから仕方ない。この映画をご覧になっていない方、この本と併せてお勧めしておきます。

# by yokohama7474 | 2016-04-19 23:52 | 書物 | Comments(2)  

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 (ザック・スナイダー監督 / 原題 : Batman vs Superman : Dawn of Justice)

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他流試合という言葉は、日本独特のものなのであろうか。剣豪の時代ならいざしらず、20世紀に至ってもキングコング対ゴジラからアントニオ猪木対モハメド・アリまで、えっ、この人とこの人が闘うのか、という組み合わせを我々は楽しんできた (・・・ちと例は古いかもしれないが)。両雄並び立たずという言葉もある。クラシック音楽の世界でも、トスカニーニとフルトヴェングラー、カラヤンとチェリビダッケ、アバドとムーティなど、お互いの能力を認めるがゆえに不仲となってしまった指揮者たちがいた。さて、これはそのような流れにある映画、かどうかは見る人の判断として (笑)、いやはや、21世紀も進んで来ると、こんな対決を考える奴が出て来るのである。バットマンとスーパーマンが対決するったって、そんなのどう考えてもスーパーマンが勝つに決まっている。なぜなら、バットマンがいかに武装し、体を鍛えていようと、所詮は生身の人間だ。対するスーパーマンは遠くクリプトン星からやってきた宇宙人。そもそも、一体どういうわけでこの二人のヒーローが闘うことになるのか。これは見に行かないわけにはいかない。

ひとつの期待は、監督がザック・スナイダーであるということだ。「300」が代表作なのかもしれないが、残念ながらそれは見ていない。スーパーマンシリーズの前作「マン・オブ・スティール」は見ているが、まあそれほど印象的でもなかった。私が驚嘆したのは、彼が原案から手掛けた「エンジェル・ウォーズ」という映画 (原題は "Sucker Punch" = 不意打ちという全く違うものだ)。
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日本のオタク文化から想を得ながら、オタクを嫌悪する私にすらズシーンと来るなにかを投げかけた面白い映画である。この監督が採り上げる題材なら、何か筋の通ったものがあるかもしれない。しかも今回の作品、製作総指揮は今や巨匠監督となったクリストファー・ノーラン (バットマンの最近のシリーズを監督している) であると聞くと、これは期待しない方が無理というもの。

この映画のプログラムによると、実はコミックの世界ではバットマンとスーパーマンが「共演」することは多く、遥か 1952年にまで遡るという。そこで興味を持って、そもそもこれらのヒーローが最初に登場したのはいつかと調べてみた。すると、スーパーヒーローの元祖スーパーマンは 1938年に登場、一方のバットマンはその翌年 1939年に初めて発表されたことが分かった。そのイメージは陰と陽。なるほど、両大戦間の平和なアメリカに、この対照的なふたりのヒーローは相次いで登場したことになる。私が知らなかっただけで、コミック誌上での最初の共演から既に半世紀以上。スクリーンでの共演がなかった方が不思議なくらいだ (笑)。これは 1962年のコミック (両方のキャラクターが掲載されていた DC コミックだ)。"World's Finest"、つまり「世界最強」のコンビということだろう。どうやら、偽物スーパーマンが現れる話のようだ。
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ということで期待が大きく膨らんだ状態で劇場に向かったのであるが、うーむ。申し訳ないがこれは一言で言えば失敗作だ。その理由をネタバレしないように説明するのは難しいが、以下の要因が挙げられよう。
・両ヒーローとも社会から非難される事態に陥るが、その必然性が弱い。
・バットマンのスーパーマンに対する思いも、描き方が全然不足している。なんでそこまで???? と、誰しもが思うだろう。
・あー夢だったの繰り返しがしらける。素人の作品じゃないんだから。
・両ヒーローとも、既に周りの人たちに正体がばれている。スーパーマンに向かってクラークと呼んだり、バットマンに向かってブルースと呼んだりするのは反則だと思う。
・両者の対決のシーンからの展開が強引。ただの名前の一致だけで、あんな憎しみが瞬時に消えますか???
・そもそも両者が互角に闘える前提としての鉱物クリプトナイトの効力が弱すぎる。スーパーマンの回復早すぎ。その一方でラストでは効果てきめんで、説得力なし。
・上映時間が長いと思ったら、両者の対決以外に盛り込まれた要素があって、それが完全に余計。あんな再生ができるなら、クリプトン星人が死んでも再生できるはず。
・そして、題名にある「ジャスティス」もまた余計な要素。今後シリーズ化を前提としているのだということ以外に、必然性なし。

まあこんなに突っ込みどころ満載の映画もないだろう。152分の上映時間に客席から沢山のハテナが飛び散っているのが見えた気がする (笑)。

一方、これだけ豪華な役者陣を揃えた映画も珍しいだろう。後で気づいたことには、スーパーマンサイドは、完全に前作「マン・オブ・スティール」を踏襲していて、スーパーマンのヘンリー・カヴィルはもちろん、ロイス・レーン役のエイミー・アダムス、デイリー・プラネットの上司役のローレンス・フィッシュバーン、父親役のケヴィン・コスナー、母親役のダイアン・レインと、すべて同じ。
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驚きは一方のバットマンサイドだ。なんと言っても注目は、初めてバットマンを演じるベン・アフレック。ただ、ここでのバットマンはスーツも重々しげなら、アクションシーンにも切れがないと思う。それはなんらかの監督の意図によるものなのであろうと思うのだが、もしそうであれば、さてベン・アフレックほどの俳優を使う意味があったかどうか。
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それから、私にとっていちばんの驚きは、執事アルフレード役は、なんとなんと、細身の二枚目俳優 (であった?)、ジェレミー・アイアンズだ。いつものマイケル・ケインよりも精悍かつスリムな感じで、鈍重な印象のここでのバットマンとは好対照。これも何か意味があるのか???
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さらにもうひとり、議員の役を演じて久しぶりにスクリーンを飾るホリー・ハンター。あのジェーン・カンピオン監督の「ピアノ・レッスン」は私にとって生涯ベスト・テンに入る名作。随分年をとってしまったが、昔の面影はあるし、キャリアウーマン役がよく似合う。
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まあそれにしてもすごい俳優陣だ。加えて、敵役のジェシー・アイゼンバーグ、謎の美女役のガル・ガドットもよろし。
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とまあ、豪華俳優陣の演じるハテナ映画ということで、きっと将来的には珍品の部類に入ることだろう。ひとつだけトリヴィアネタを書くと、盛装のカクテル・パーティのシーンに流れているのは、ショスタコーヴィチのジャズ組曲第 2番の中の「ワルツ 2」だ。そう、あのキューブリックの遺作、「アイズ・ワイド・シャット」で使われていたあの曲。エンド・タイトルに目を凝らすと、リッカルド・シャイー指揮のコンセルトヘボウ管の演奏であった。
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このシーンだけ見ると、大変素晴らしい映画かと思いますな (笑)。ラストシーンは次回作に続くという意思表示であろうが、さてさて、次回作を作れるだけの興行成績を無事挙げられますかね。見ものです。

# by yokohama7474 | 2016-04-19 00:06 | 映画 | Comments(0)  

パスカル・ヴェロ指揮 仙台フィル 2016年 4月17日 サントリーホール

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フランス・ロマン主義を名実ともに代表する作曲家、エクトル・ベルリオーズ (1803 - 1869)。彼の代表作である幻想交響曲は、クラシック音楽を聴く人誰もが夢中になる曲だ。かく言う私も中学生の時から数限りない回数、この曲を聴いてきた。この曲には標題があって、それがなんとも異常なのである。若くて才能のある作曲家がアヘンに溺れて自殺を図るが死にきれず、奇怪な夢を見る。その夢の中で作曲家は愛する女性を殺してしまい、その女性が悪魔を扇動して作曲家を断頭台に送るという、なんとも禍々しい内容だ。だがこの曲が人気があるのは、そのような暗く悲惨な設定の割には、音楽自体にはユーモアもあって楽しめる内容になっているからだろう。誰がなんと言おうと、天下の名曲である。この天下の名曲、作品番号 14という若さから知られる通り、1830年、作曲者が弱冠 27歳のときの初期の作品だ。ところが私がこの曲に親しみ始めた当初から、この曲の作品番号は本当は「14a」であり、実は「14b」という姉妹作があるのだということをモノの本で読んでいた。その姉妹作こそ、「レリオ、または生への回帰」なのである。

ところがこの「レリオ」という作品、滅多に演奏されないのだ。私も生で聴いたことが一度もないどころか、録音においても、ブーレーズの 1960年代のもの (語りを、あの「天井桟敷の人々」で有名なジャン・ルイ・バローが務めている)、それからインバルやデュトワのベルリオーズシリーズの一環と、ムーティがシカゴ響の音楽監督に就任した際のライヴ (語りはジェラール・ドパルデュー) に、同じムーティがラヴェンナで演奏した際のものくらいしかない。ベルリオーズを得意とした指揮者でも、シャルル・ミュンシュとかコリン・デイヴィス、あるいは小澤征爾、それにバレンボイムなども、この曲は録音していない。なので私は、いつかこの曲の生演奏を聴ける日を楽しみにして来たのである。「うーん、なんであまり演奏されないのだろう」と思案顔のベルリオーズ。
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その願いは思わぬ形で満たされた。仙台フィルの東京公演。指揮は、現在の常任指揮者で、以前新星日本交響楽団 (東京フィルに吸収合併されてしまった) のシェフであったフランス人、1959年生まれのパスカル・ヴェロだ。
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作曲者は、幻想交響曲の後にこのレリオを演奏するように指示しているらしい。そこにひとつの無理がある。幻想交響曲は 50分を要する大曲。このレリオには 1時間を要する。通常一晩の演奏会は、正味 1時間半が相場である。なのでこの 2作品を演奏すると長くなりすぎる。加えて、作曲者の分身が長々と鬱陶しく喋り続け、ソロのテノールがピアノやハープの伴奏で歌うかと思うと、合唱団が亡霊となったり盗賊となったり、支離滅裂な配列になっているのだ。そして、なんと言ってもコンサートの終わりには幻想交響曲の激烈さが欲しい。これを先に演奏してしまうと、コンサートの座りが悪い。そんなわけで、なかなか実演で聴くことができないレリオを、この耳で聴く日がやってきた。

仙台というと、言うまでもなく 2011年の大震災の被災地である。このコンサートは復興支援に対する感謝をこめて開かれるものであり、このコンサートのチケットは完売だ。会場に辿り着くと、スタッフがホールの入り口近くに並んで聴衆に礼を述べている。その中に、この楽団のミュージック・パートナーの称号を持つ若手指揮者の山田和樹の姿もあり、ちょっとした驚きだ。
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そして会場には、このような謝礼や、この仙台フィルが震災後に行ってきた復興活動 (各地でのコンサート) の様子についての説明板がある。
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ところが奇しくも今日本では、なんということか、新たな災害が進行中だ。熊本を中心とする九州での連続地震。最初の地震のあと余震が一週間程度続くとのことであったが、なんたること、大きな余震がいつ絶えるともなく継続しているという前代未聞の事態。本当に被災者の方々の身が案じられる。そのような中、この日の会場にもカンパを求める箱が設置されている。
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それから、これも驚きだが、もともとこの演奏会には天皇・皇后両陛下が臨席される予定であったらしい。だが熊本での地震が続いているため、このコンサート鑑賞はキャンセルされたという宮内庁の説明が貼られていた。
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そのような特殊な環境で開かれたコンサートであったが、内容はこの上なく充実したもので、音楽を聴くことができることのありがたさを身に染みて感じることができる機会にもなった。東京のオケの充実ぶりをいつもこのブログに書いている私であるが、東京以外にもこれだけの音楽を奏でるオケがあちこちにあるという事実に、心から感動を覚える。

今回、幻想とレリオを続けて演奏するにあたって、面白い工夫がなされていた。まず、オケの登場は一斉にではなく、三々五々。これによって聴衆は拍手する機会を奪われる。ふと見るとチューニング前に指揮者のヴェロも舞台に出ている。そして、舞台奥には木製のデスクが置かれていて、そこに何やら羽ペンを持った古い時代の芸術家の姿が。これは、仙台在住の俳優、渡部ギュウ演じるところのベルリオーズである。
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このベルリオーズ、開演前になにやら楽譜数枚を指揮者に渡し、指揮者がそれを何人かの奏者に配っている。演奏開始前から演技が始まっているわけである。そしてチューニングが始まり、またもや聴衆が拍手の機会を奪われるうち、幻想交響曲が始まった。私はこのオケも指揮者も初めて聴くが、いやー、その音楽に対する姿勢の真摯であること。弦も管も、また打楽器も大変いい音で鳴っており、特に木管の自主性は大したもの。ヴェロの指揮はある意味で職人性を感じさせるものでありながら、冒頭、音楽が動いては立ち止まる感じや、続く楽章でも、舞踏会の華やかさとそこに見える恋人の幻影の残酷さ、野の風景のシュールな感覚、断頭台への行進のおぞましさ、怪物たちの饗宴のそこはかとないシニカルさ、いずれも素晴らしい。そして、全曲が爆裂する和音で終わったときに一斉に照明が落ち、指揮者とベルリオーズ役の役者の姿が消えたところで前半終了。なんという鮮やかさ。幻想交響曲の演奏中、役者はほとんどずっと (野原で殺人を犯すとき以外???) 舞台にいて、若干その演技が過剰であったかもしれないが、まあ、イヤならそこを見ないという手もある。よく考えられた演出である。

後半のレリオもその延長線上にあり、ここでは渡部ギュウがベルリオーズ自身の手になる台本の日本語役を喋り続け、テノールのジル・ゴランとバリトンの宮本益光とが美声を聴かせ、この演奏会 (仙台で 2回、東京で 1回) のために結成された合唱団が、あるときは美しく、あるときは力強く、歌い上げた。この曲は、要するに前作幻想交響曲の毒から解放されるための独白と静かな音楽を含んでおり、作曲者自身がこのような解毒作用を必要としたということだろう。実際の曲は、彼が以前に書いた曲の寄せ集めで、編成も曲調も、ごった煮の感がある。だが、その音楽に耳を傾けると、本当に美しい箇所があちこちに見つかるのだ。特に冒頭のテノールを伴奏するピアノは、これはどう聴いても現代のミニマルミュージックの大家、フィリップ・グラス風だ。なんとも不思議な音楽なのである。語りの中においては、シェイクスピアに対する賛辞があれこれ聴かれ、もともと作曲者が曲を書くきっかけとなった、シェイクスピア女優、ハリエット・スミッソンへの思いが横溢しているようだ。よく知られている通り、ベルリオーズは後年この憧れの人と結婚し、そして離婚することになるのだが、まあそれにしてもよくもこんなこっ恥ずかしいテキストを公にしたものだ (笑)。根っからのロマン主義者ベルリオーズの本領発揮ということか。

そんなわけで、初のレリオ体験は非常に充実したものとなった。写真で見るとこの仙台フィルの本拠地のホールは大変近代的であり、音響もよさそうだ。かくなる上は、このオケやその他の優れた地方オケを、現地にまで聴きに行く機会を作りたい。スケジュールは、まあそれはタイトであるが、なんとかしたい。新たな発見がいろいろあることだろう。
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# by yokohama7474 | 2016-04-17 23:54 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

カラヴァッジョ展 国立西洋美術館

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日伊国交樹立 150年を記念して行われている展覧会のひとつ、カラヴァッジョ展。ダ・ヴィンチ、ボッティチェリに続く名前としては申し分ないビッグネームだ。だが、会場に掲げられている駐日イタリア大使のメッセージには、「このイタリアの巨匠はまだ日本ではそれほど知られていないかもしれませんが」とある。いやいや大使、日本を侮って頂いては困ります。過去 30年くらいの間にこの画家の名は広く知られるようになっているはず。有名ですよ、有名。だが、実際にこの画家の個展となるとさすがに多くなく、私が知る限りでは、2001年に東京都庭園美術館で開かれた展覧会くらいではないだろうか。その意味で、この記念の年に幾つかの大変貴重な作品を含むこの展覧会が開かれる意義は大きいだろう。

ミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジョ (1571 - 1610) は、いわゆるバロック期の画家として分類されているが、一言で言ってしまうと、その光と影の効果を最大限に利用した劇場的な絵画は、それまでに、いやそれからも、誰もものしたことのない強烈なもので、その独創性はまさに比類ない天才を示していよう。私自身、この画家との出会いをはっきりと思い出すことはできないが、恐らくは英国の鬼才デレク・ジャーマンが監督した「カラヴァッジョ」という映画ではなかったか。調べてみるとこの映画の制作は 1986年。ちょうど私は学生で、深く尊敬する美術史家の若桑みどりが大学の講師であったので、その講義において主としてマニエリスム (定義としては後期ルネサンスからバロックへの移行期と言えようか) を学んでいた頃でもある。若桑先生は惜しくもその後亡くなってしまったが、私の手元にある何冊かの彼女の著作のうち、「薔薇のイコノロジー」という代表作にも、カラヴァッジョのことが少し出てくる。決闘によって殺人まで犯してしまい、その後逃亡生活を送った人なので、かなりの荒くれ者というのが一般のカラヴァッジョの評価であろうが、当時、NHK の日曜美術館で、「この画家はどんな人だったのでしょうね」というアナウンサーの問いかけに、若桑先生がこともなげに「普通の人だったと思いますよ」と答えていたのが強く印象に残っている。人殺しといったエキセントリックな面にだけ光を当てると、返ってカラヴァッジョの歴史的意義に曇りが生じるという信念をお持ちであったのだと思う。この画家とは、先入観を排して正面から向き合わないといけない。
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さて今回の展覧会であるが、カラヴァッジョの作品が 11点展示されていて、残りはカラヴァジェスキと呼ばれる追随者の作品が主だという。うーん。上にも書いた通り、この画家はまさに唯一無二の天才なので、追随者の作品を見る意味が果たしてどのくらいあるのだろうか・・・というのが最初の印象。展覧会には総数で 51点が展示されており、私の最初の印象は、展覧会を見終わったときには、率直なところ当たったと申し上げておこう。だが、ことはそう単純ではない。カラヴァッジョ以外の作品にもいくつか大変興味深いものがあったので、追って触れることとしよう。

今回来日している 11点には、未だ初期の、スタイルを模索している時代の作品も含まれる。例えばこの「女占い師」(1597年) は、画家の 20代の作品。後年のドラマ性はないが、街のどこにでもいる人をモデルにした雰囲気で、しかも題材はカトリック国イタリアとは思えない世俗的なものだ。今回展示されているのは、ローマのカピトリーノ美術館所蔵のもので、カラヴァッジョ真筆と判断されるまでには時間がかかったという。同じ構図の作品がルーヴルにも所蔵されている。
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この「トカゲに噛まれる少年」(1596 - 97年頃) も初期の作品ながら、美しい花の間に潜んでいたトカゲに手を噛まれた少年の様子は、なんらかの比喩としての教訓があるのではないかと思われるほど怪しい。イッテッテ。
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この雰囲気はカラヴァッジョ絵画のひとつの典型となろう。上に掲げたポスターになっている二つの作品、つまり「果物かごを持つ少年」(1593-94年頃) と「バッカス」(1597-98年頃) も、この系列に属する絵画である。あえて言及するまでもなかろうが、かねてよりその同性愛的な嗜好を云々されるカラヴァッジョ (これこそまさに、エイズでこの世を去ったデレク・ジャーマンの生涯のテーマでもあった) の本領発揮の作品と言えるだろう。とにかく、同性愛者でない者までうっとりさせるということは、これらの絵画には時空を超えた力があるということだ。

それからこの絵は、私としては子供の頃に読んだ妖怪図鑑のメドゥーサの欄に載っていたのを見て、怖い怖いと思っていたもの。この禍々しい鮮血のリアルさ、見開いた目に浮かぶ恐怖心と恍惚、我関せずとのた打ち回る蛇たち。・・・だが実は、今回展示されているのは個人蔵の珍しい作品であって、1990年代までは知られていなかった作品らしい。有名な同じ構図の作品はウフィツィ美術館の所蔵されている。いやぁ、貴重な作品を見ることのできるチャンスであったわけだ。しかも赤外線撮影によって、当初の目の位置や表情が異なっていたことも判明している。天才の試行錯誤の軌跡である。
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そして画家はその後、1606年に決闘で人を殺めてしまい、逃亡生活に入るのだ。その 1606年に書かれた「エマオの晩餐」。ミラノのブレラ美術館の所蔵になる。
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ここで遂に、彼特有の光と影のドラマが姿を現す。現代に暮らす我々は、映画において様々なライティングによるドラマティックな映像に慣れているが、今から 400年前、日本で言えば江戸時代最初期に、これだけのドラマ性を持った作品がイタリアで生まれていたことに感嘆の念を禁じ得ない。

そして今回の展覧会の目玉である、同じ 1606年に描かれた「法悦のマグダラのマリア」。これはつい最近カラヴァッジョの真筆と認定され、この展覧会が世界初公開である由。天才がいよいよ並ぶ者のない天才になったことを思い知る。分かったような解説は忘れ、ただひたすらこの絵の前で時間を忘れよう。
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この作品には 15くらいの模写があるとのことだが、近年発見されたこの作は、画家が殺人を犯した年に書かれ、その後の逃亡生活を通じて最後まで手元に取ってあった作品だという。この鬼気迫るただならぬ雰囲気には、天才が命をかけた証を見て取ることができる。長い西洋絵画の歴史においても、そのような作品はそうそうないと思う。と言いながら私の頭の中には、この凄まじい絵に匹敵する法悦を表した彫像が浮かぶ。そう、やはりまぎれもない天才であった彫刻家ベルニーニの「聖テレジアの法悦」(1652年) である。どうだろう。ポーズも表現力も、よく似ているではないか。あ、この作品は教会の中にあるので、今回の展覧会には来ておりません。あしからず。
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今から 20年ほど前、ローマで観光しまくったことがあり、その際にはもちろんカラヴァッジョの祭壇画もあれこれ巡り歩いたが、ベルニーニの彫刻の数々にも舌を巻いたものだ。今このカラヴァッジョ展を見て、改めてバロック絵画の美学の継承を思う。ベルニーニは 1598年生まれだからカラヴァッジョより一世代下。それまで人類が持ち得ていなかった情念の表現は、遥か 450年や 500年を経ても、未だに生命力を保っているのである。

さてここからは、この展覧会で展示されている、カラヴァッジョ以外の画家の作品を見てみよう。ここでは「カラヴァジェスキ」という名称で、カラヴァッジョの追随者という扱いがなされているが、ところがところが、中には注目に値する画家が何人もいるのである。まずこれは、「ハートフォードの静物の画家」と呼ばれる逸名の作者による、「戸外に置かれた果物と野菜」。今となっては信じがたいが、以前はカラヴァッジョの作品とされていたことがあるという。それは、この作品を所有していたガヴァリエーレ・ダルピーノという画家にカラヴァッジョが一時期師事していたことによるらしい。うーん、それにしても果物や野菜が異様な生命力を持つ不思議でシュールな絵である。
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そしてこれは、カラヴァッジョの友人であり、彼から多大な影響を受けたとされる、オラツィオ・ジェンティレスキ (1563 - 1639) による「スピネットを弾く聖カエキリア」。
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まるで近代の作品を思わせるようなリアリティである。バロックから近代までの距離は、意外に短いのかもしれない。そしてこの画家の娘が、当時としては極めて珍しい女流画家、アルテミジア・ジェンテレスキ (1593 - 1654 以前) である。この展覧会には、彼女の手になる「悔悛のマグダラのマリア」が展示されている。
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この裸体の尋常ならぬなまめかしさは、これはもう反則である (笑)。このような反則は、やはりカラヴァッジョという先達がいたからこそ可能になった表現であると思う。この女流画家の生涯が映画になっているのをご存じだろうか。1998年日本公開の映画、その名も「アルテミシア」。
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今手元にこの映画のプログラムを持ってきて確認すると、監督は女流のアニエス・メルレ。主演はヴァレンティナ・チェルヴィ。いずれもその後聞かない名前であり、この映画自体もそれほど印象に残っているわけではないが、歴史の流れの中で血を流しながら芸術に身を捧げた芸術家への敬意は、常に持ち続けているつもりの私である。

それから、これも非常に珍しい絵である。マッシモ・スタンツィオーネ (1585 - 1656) の手になる「アレクサンドリアの聖カタリナの頭部」。この死者の首のリアリティはどうだ。恐らくは画家が実際に目にした生首の写生によるものではないか。カラヴァッジョも切断された首をあれこれ描いたが、そこにはまだロマン性というか空想癖というか、現実と異なる雰囲気が常にあった。だが、彼が時代にもたらした絵画表現上の衝撃は、このような仮借ない表現にまで発展してしまったのだ。
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そしてこれも非常に珍しい作品。タンツィオ・ダ・ヴァラッロ (1582 頃 - 1633) の手になる「長崎におけるフランシスコ会福者たちの殉教」。ミラノのブレラ絵画館の所蔵になるものだ。
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その題名の通り、1597年に秀吉の命によって長崎で処刑された 26人のキリスト者の殉教を描いたもの。実際の出来事から 30年以上経ってからの制作であるようだが、遠く離れた極東の地での殉教は、カトリックの人たちに訴える出来事であったことが知られる。うーん、それにしてもこのアジア人のようでもありトルコ人のようでもある迫害者のキッチュさには、それが真摯であればあるほど、何やら異様な感じが出ている。今回の展覧会の図録にある解説を見て、この作品がジャック・カロの 1627年の同主題の版画に基づくものであると知った。うーむ、カロの版画は以前の展覧会ですべて見たと思っていたが、これは記憶にない。調べてみるとこんな作品だ。なるほど似ている点もあるが、この油絵は、より一層悲惨な情景となっている。このようにして歴史の悲惨は記録されて行くものなのか。
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この展覧会ではその他、ジョルジュ・ラ・トゥール (1593 - 1652) による「煙草を吸う男」も展示されているが、ここまでの才能になると、カラヴァッジョの影響だけでなく、その画家自身の天才的ヴィジョンが結実したものであると実感される。
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このように、様々な切り口からカラヴァッジョの美術史上における功績を知ることができる。ほかの誰にも似ていない天才であったがゆえに、彼が地球上に存在した 38年の間、この男はあたかも空から降ってきて地表に激突した隕石であるかのように、歴史を変えたのである。近年、彼の墓が発見されたというニュースがあったが、そうだ。この画家は生身の人間。死して屍をこの世に残して行ったのである。人類がこのような画家を持ち得たことに感謝しよう。

# by yokohama7474 | 2016-04-17 22:32 | 美術・旅行 | Comments(2)