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シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (ヴァイオリン : シモーネ・ラムスマ) 2017年 2月 4日 東京芸術劇場_e0345320_17153453.jpg
読売日本響 (通称「読響」) が常任指揮者シルヴァン・カンブルランのもとで演奏する曲目には、かなり凝ったものが含まれるのが通例で、先月から今月にかけての演奏会でも、先に記事を書いたメシアンの「彼方の閃光」や、少々通好みのフランス音楽集などがあったが、今回は極めてオーソドックス。上のチラシにある通り、チャイコフスキー・プログラムである。しかも以下のようなポピュラーなもの。
 ヴァイオリン協奏曲二長調作品 35 (ヴァイオリン : シモーネ・ラムスマ)
 交響曲第 5番ホ短調作品 64

クラシックを聴く人なら、知らない人はいないどころか、好きではない人はいないような名曲 2曲。今日と明日の 2回、同じ演目が演奏されるが、土日ということもあり、チケットはいずれも完売。日本人に大人気のチャイコフスキーである。かく言う私も、ヴァイオリン協奏曲は正直、少し聴き飽きた感がないでもないが、5番のシンフォニーはまぁ、わが生涯を通して本当に飽きもせずに繰り返し聴いているものだ。クラシックの入門曲なので、高校生の一時期は、文字通り毎日毎日毎日毎日聴いていたこともある。そして、50を越えた今となっても、ふと気づくと頭の中でこの曲が鳴り響いていることがよくあるから厄介だ (笑)。きっと高尚なクラシックファンの方からすると、この交響曲などは、感傷的で陳腐な曲だと思われるであろう。何より作曲者自身がそう言ってこの曲を低く評価していたのだから、きっとそうなのでしょう (笑)。私とても、高尚なクラシック音楽を嫌いとは言わないが、でも、この親しみやすく、時に感傷的なチャイコフスキーという作曲家の作品には、きっとなにか人生の真実が秘められているがゆえに、多くの人々と同様、私も抗しがたい魅力を感じるのだと、ネットの大海の片隅で堂々と宣言しておこう。

コンチェルトでヴァイオリン・ソロを聴いたのは、今回が初来日となるオランダの女流、シモーネ・ラムスマ。
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経歴を見ると、19歳で英国王立音楽院を最優秀の成績で卒業、これまでロイヤル・コンセルトヘボウ管、フランス国立管、スイス・ロマンド管、セントルイス響などと共演しており、やはりオランダ出身の指揮者でニューヨーク・フィルの次代音楽監督に内定しているヤープ・ヴァン・ズヴェーテンが「世界をリードするヴァイオリニストの一人」と絶賛しているという。どこどこコンクール優勝という経歴の記載はないので、地道に活動を広げ、能力が認められて実績を重ねて来た人であるようだ。オランダ人の常として大変長身で、舞台映えする点は有利かもしれないが、もちろん背の高さで音楽をやるわけではないから (笑)、世界の人々に訴えかける何かを持っているのであろう。実際この日のチャイコフスキーを聴いた印象は、優美なテクニックよりも強い表現力を重視するタイプであろうかと思う。第 1楽章の終結部で音楽が熱を帯びる箇所や、第 3楽章の導入部で音楽が走り出す箇所では、ややテンポを上げて情熱的に弾いていた (カンブルランは平然としながらぴったりと合わせていた)。また第 2楽章でも、陰鬱な中音域で注意深く音楽の呼吸を生み出していて、自然な佇まいの中に強い集中力が感じられて素晴らしかった。その表現力は、アンコール (聴衆に向かって「アリガトウ。Thank you!」と言ったあと英語で曲名を告げた) で演奏されたイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第 2番の第 4楽章でも発揮され、浮かび上がっては消えて行く「ディエス・イレエ (怒りの日)」の旋律には鬼気迫るものがあって、なるほどこういう持ち味のヴァイオリニストなのだなと納得できた気がした。一方で、もう少し端正な音楽も聴いてみたい気もしたことも事実。もちろん未だ若手なので、これからの成長には大いに期待できるだろう。今回、東京でのリサイタルは 2月10日 (金) に浜離宮朝日ホールで開かれる。私は彼女のエージェントでもなんでもないが (笑)、チラシを掲載しておこう。
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カンブルランの指揮は切れ味鋭いもので、あまり感傷的な要素がないのが特色であるため、チャイコフスキーの交響曲をどのように料理するのか興味があったが、今回の第 5番、概して大変オーソドックスな演奏であったと思う。もっとも、冬のロシアの寒くて曇った空を思わせる暗い冒頭部分は若干遅めのテンポを取りながらも、主部に入るとあまり粘らない歌い方できっちり弦を刻ませていて、情緒纏綿というイメージではない。身も世もない哀しみというよりは、音響のドラマとしてのチャイコフスキーが冒頭から提示されていたと思う。全体を通して、木管の歌いまわしも金管の咆哮も素晴らしく、時折微妙にテンポを変えながらかなり丁寧な身振りを伴うカンブルランの指揮を、読響がよく音にしていた。音に勢いはあるが、だが勢いに任せて暴走することはない。第 3楽章から第 4楽章へは、多くの場合、間を置かずに続けて演奏されるが、今回は完全に楽章間が切り離されていた。このあたりもカンブルランの感性が、情緒によりかかりすぎることなく、音のドラマを引き出そうという意図につながっていることを端的に示していたと思う。スタンダードな曲目において、この指揮者とオケならではの味わいを持ちながらも、誰もが楽しめる演奏を聴くことができることは嬉しい。「休日の午後のチャイコフスキー」に、聴衆は皆、満足して帰ったことだろう。

カンブルランの次回来日は、新シーズン最初の 4月。ほんの 2ヶ月後である。マーラーの「巨人」をメインとするプログラムで開幕。そして、バルトークの歌劇「青ひげ公の城」の演奏会形式上演もある。彼らしい意欲的なプログラミングにおいて、また素晴らしい演奏を期待したい。
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# by yokohama7474 | 2017-02-04 18:14 | 音楽 (Live)

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この映画の邦題は「トッド・ソロンズの子犬物語」。「子犬物語」だけなら可愛いのだが、そこに何やら人の名前がついている。そもそもこのトッド・ソロンズとは何者かというと、この映画の監督なのである。最近の邦画の題名には、監督名を入れることは稀になっているが、以前は「フェリーニの」とか「ゴダールの」とかを冠した邦題名がいろいろあったし、渋いところでは「ヤコペッティの大残酷」などという映画もあったものだ。監督のトッド・ソロンズはアメリカン・インディペンデント界の鬼才であるそうで、私は見たことがないが、「ハピネス」「ストーリーテリング」などの作品で様々なタブーに触れながら人生のバカバカしさ、人間の愚かさをブラックユーモアたっぷりに描いてきた監督だという。なるほど、これでこの映画について語るべきことの半分は終わってしまった (笑)。監督はこんな人。確かに、大変爽やかそうとは、お世辞にも言えない人相だ。
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ネットの評判などを見ると、「可愛い題名に惹かれて見に行ってみるとビックリ!!」などというトーンのコメントがあるが、さもありなん。題名のみならず、ポスターを見てもこれは明らかにダックスフントを主人公とした映画であり、可愛らしい内容を連想しても不思議ではない。だが、予告編を一度でも見れば一目瞭然。これはかなりブラックな映画である。そして私がこの映画を見ようと思ったのは、まさにその点によってであった。ブラックな映画であるゆえに、上映館は限られているが、私が見に行ったヒューマントラストシネマ渋谷では、トイレがこんなことに。
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ちなみに原題である "Wiener Dog" であるが、この "Wiener" というのは、ドイツ語で「ウィーンの」という意味。そしてこれは英語では、日本語のウィンナーと同じで、ソーセージという意味らしい。ダックスフントという名称はもともとドイツ語で、英語圏では「ソーセージドッグ」や「ウィンナードッグ」とも呼ばれているらしい。その茶色くて細長い体がソーセージを連想させるからだろう。なのでこの映画の題名は、そのものずばり、主人公である犬の種類なのである。劇中の「インターミッション」に出てくる主人公のさすらいのシーン。これはとぼけた味わいがあって面白い。
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さぁ、そんな映画の内容はいかなるものなのであろうか。話は簡単。一匹のダックスフントが 4人の飼い主の間を転々とする間に起こる、様々な事件を描いている。最初の家では、少年の愛を受ける。結果的にであるが、私は 4つのエピソードの中でこれが最も印象に残った。あまりきれいでないシーン (笑) もあるが、ドビュッシーの「月の光」を、最初はフルートソロが主導するオーケストラ編曲で、続いてオリジナルのピアノで聴かせるあたり、写っている対象の汚さとの対照によって、曲の美しさを再認識させることとなった。ちなみに少年の母を演じるのはフランスの名女優ジュリー・デルピーだが、疲れた表情や体形を含めて、年を取ったなぁと思わせるのもまた、監督のブラックな意図なのだろうか。
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2人目の飼い主は、獣医の助手の女性。この女性は、ペットフードを選んでいるときにばったり出会った男のクラスメイトとともに、車で旅に出る。途中、ヒッチハイカーに出会ったり、同行の男友達の弟夫婦を訪ねたりする。
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次に犬の飼い主になるのは、落ち目の脚本家。彼は映画学校で教えているが、全く尊敬を得られず、ついに大変な事態を巻き起こす。ここで脚本家を演じているのは、最近ちょっとご無沙汰であったダニー・デヴィート (シュワルツェネッガーと共演した「ツインズ」で知られるが、ほかにも多くの映画に出演している)。さすがにいい味出している。だが、ここでの「大変な事態」(以下の写真参照) においては、落ちがイマイチ。
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そして最後は、エレン・バースティン演じる偏屈ばあさん。生活が安定せず小遣いをせびりに来る若い孫娘は、アーティストだという黒人の恋人を連れている。祖母の冷たい対応に焦ってベラベラ喋る孫娘は、彼を「ダミアン・ハーストみたいなアーティスト」と紹介するが、このアーティスト、私も名前は知っているが作品にあまり明確なイメージがなかったところ、後日ネット検索して納得。この映画をご覧になった方は、このアーティスト名で画像検索してみるとよいと思う。なるほど、ちゃんと意味のあるセリフなのだなと理解されることだろう。逆に、ダミアン・ハーストを知っている人には、それがどこのシーンに関係するのか、ワクワクしながらこの映画を見るという特権がある。
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私は映画に限らずほかの文化の分野や、果てはコーヒーまでブラックなものが好きなので、この映画を楽しむ素地はあると自負する。だが、この映画のラストは支持しない。ここで詳細を書けないのは残念だが、これはブラックというよりも、ただの嗜虐趣味である。この映画のエンドタイトルには、よくある動物愛護協会の「この映画においては動物は傷つけられていません」というステイトメントが出てくるし、監督はプログラム掲載のインタビューの中で同じことを述べている。だが、そういう問題ではなくて、散々描いてきたブラックな出来事、つまりは監督が弄んできた様々な登場人物の人生の決着をつけるために、もっとひねった結末を考えることはできなかったのか、動物愛護者の私としては、やはり残念に思うのである。

そんなわけで、可愛い子犬ちゃんの大冒険を見たい方には、全くお薦めできません (笑)。テイストの違いによって裏切られるリスクを覚悟の上で、とにかくブラックなものを見たいというもの好きな方には、特に見るなと止めることもしません。88分の短い映画ですしね (笑)。

# by yokohama7474 | 2017-02-03 23:43 | 映画

ローグ・ワン / スター・ウォーズ・ストーリー (ギャレス・エドワーズ監督 / 原題 : Rogue One : A Star Wars Story)_e0345320_22124691.jpg
「スター・ウォーズ」シリーズの第 7作、エピソード 7 となる「フォースの覚醒」を見てからちょうど 1年ほどが経過した。最初この「ローグ・ワン」の予告編を劇場で見たとき、もうエピソード 8が完成したのかと早とちりしたが、これは、"A Star Wars Story" とある通り、シリーズに付属するものであって、全 9作のメインのエピソードには入らない。だが、これは例えば「イウォーク・アドベンチャー」のようなサイド・ストーリーではなく、実はシリーズの第 1作目、エピソード 4「新たなる希望」が始まる 10分前までを描いた物語なのである。つまり、
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いやだから、イウォークじゃないですって (笑)。ローグ・ワン、ローグ・ワン。この「ローグ」という言葉、昨年の「ミッション・インポッシブル / ローグ・ネーション」でも使われていたもので、「ならず者」という意味。この作品においては、帝国軍に従わないならず者たちの活躍が描かれているのである。ネタバレはいつものように避けるが、まぁ公開後 1ヶ月以上を経て、この作品の上演頻度も落ちてきていることだし、ごく簡単に言ってしまえば、エピソード 4 の大詰めで、帝国軍の強力極まりないデススターが、一ヶ所を攻撃されただけで大破してしまうという、考えてみれば不思議な出来事があったが、本作はその背景を描いているのである。
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この映画、世間の評価を見ているとなかなか高いようだが、正直に白状してしまうと、残念ながら私はあまり乘れなかった。それは、この直前 (同じ日) に見た映画が、先の記事でも採り上げた「アイ・イン・ザ・スカイ」であったことも関係していよう。現代の世界で実際に起こっていることを再現したようなあの映画の筆舌に絶する切実感に比べれば、この映画の中で起こっている戦争は、どこまで行っても架空の世界。もちろん架空の世界は大いに結構なのだが、今思い出せばエピソード 4で帝国軍兵士が銃で撃たれて倒れるところなど、いかにもどこかのどかなものであった。この映画で頻出するそのようなシーンを見ていると、何か胸が悪くなるような気がして来てしまう。これは私がいけないのであろうか。
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主役を演じるフェリシティ・ジョーンズは、「インフェルノ」での演技も記憶に新しい英国の女優である。ここでも「スター・ウォーズ」シリーズ特有の父と子の葛藤が描かれるが、この場合の設定はそれほど屈折もなく、ストレートな彼女の演技には好感が持てる。だが、いわゆる色気は皆無であると申し上げておこう (笑)。
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私の好きなフォレスト・ウィテカーも重要な役で出演している。彼はいい味を出していると思う。
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その一方、ほかのキャラクターにはあまり感心しなかった。この 2人は頑張っているものの、突き抜けたものまでは感じられなかったのは私だけだろうか。
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盲目の武術者チアルート・イムウェを演じるドニー・イェンと、その仲間であるベイズ・マルバスを演じるチアン・ウェン。実はともに 1963年生まれの中国人で、母国の映画で過去 2回共演しているという。と思ったら、後者はなんと映画監督でもあり、あの香川照之が出演した、日中戦争を舞台とした厳しい作品「鬼が来た!」の監督・主演なのである。それは面白い。だが、例えば「七人の侍」の大詰めシーンのような容赦なく観客に迫ってくるような迫力は、彼らの熱演によっても感じられなかった (比較するのも酷だとは思うものの)。

監督のギャレス・エドワーズは、2014年の「Godzilla」でメジャーテビューした英国人で、41歳。これだけの大作ともなると監督の持ち味を出すのは困難であると思うが、そうですねぇ、「Godzilla」もそれほどすごい映画とも思わなかったし、今後の活躍を期待することとしよう。
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恐らく「スター・ウォーズ」ファンとしては、ちゃんとダース・ベーダーが出てくるところとか、C3-PO や R2-D2 も 1シーンだけ出てくるところに喜びを見出すであろう。その他あれこれのトリビア楽屋落ちが沢山入っていることは、ネット検索すれば情報が得られる。だが私が面白いと思ったのは、この人の出演だ。
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昔のホラー映画におけるフランケンシュタインやドラキュラ役でも知られる名優ピーター・カッシング。ここでは、エピソード 4と同じ、デススターの司令官、ターキンを演じている・・・、いやちょっと待て。彼は随分以前に亡くなったのではなかったか。そう、彼は 1994年に死去している。実は今回のこのシーン、別の俳優の演技に昔のカッシングの顔をはめ込んだ CG 合成なのだそうである。うーん、全く違和感を感じない出来であった。同じような例はこの人にも。
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キャリー・フィッシャー演じるレイア姫が、デススターの設計図を受け取るシーンで出て来るのだが、これも明らかに CG 合成だと思われる。エンドタイトルを見ていると、Special Thanks のところに彼女の名前が出ていたので、撮影に当たって何かアドバイスでもしたのであろうか。だが、そのキャリー・フィッシャーは昨年 12月27日、まさに日本でこの映画が封切られた数日後に突然死去。未だ 60歳であったという。しかも、エピソード 4撮影時に共演していたハリソン・フォードと不倫関係にあったという衝撃事実を記した自伝をその直前に販売、そのプロモーションのためにロンドンを訪れた帰り、ロサンゼルスの空港で飛行機を降りたあと倒れたということだ。しかも彼女の死去の翌日、母親のデビー・レイノルズ (ミュージカル「雨に唄えば」でジーン・ケリーの相手役を務めた) も 83歳で死去。なんとも痛ましいことではないか。私がこの「ローグ・ワン」を見ても乗れなかったもうひとつの理由は、この一連の出来事が起こった後に見たことにもあるかもしれない。

それにしても、爽快感のない「スター・ウォーズ」だ。そもそも冒頭で "A long time ago in a galaxy far, far away..." と来て、ジャジャジャーン、パララッタッタッタタタタタタタタタと、ジョン・ウィリアムズによるあの勇壮なメインテーマが鳴り響くのがこのシリーズのワクワク感を醸成するのに、ここではそれがない。一方、本編終了後にはいつものエンドテーマが元気よく流れてやれやれと思うが、それもつかの間、すぐに暗い曲調に変わってしまうのだ。音楽の使用に関しては、何か契約上の問題でもあったのかと勘ぐりたくなってしまう。私はエピソード 2 の封切を 2002年にニューヨークで見たのだが、有名なテーマ曲が出て来るとヤンキーたちはヒューヒュー言って大騒ぎであった。さて今回の作品、そのようなヒューヒュー騒ぐ瞬間を奪われているわけで、米国の観客の反応はどうだったのであろうか。

ここで私が考え込んでしまうのだ。世界には暗く深刻な出来事が溢れていて、それは例えば「アイ・イン・ザ・スカイ」のような作品で仮借なく描かれている。その一方で、本来暗い世界を勇気づけるような希望を描くべき「スター・ウォーズ」が、戦争の描き方には切実感がない一方で、爽快感まで失ってしまっているとは、いかなることか。もはや時代は、胸のすく爽快な活劇というものを生み出せなくなってしまったのであろうか。彼らローグ・ワンによってつながれたはずの「新たなる希望」には、一体世界に対するどのようなメッセージが込められているのだろうか。
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# by yokohama7474 | 2017-02-03 00:24 | 映画

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2017年 1月の東京におけるオーケストラコンサートは、ニューイヤーコンサートの類を除くと、期せずして 2系統のプログラムがメインストリームとなった。ひとつの流れは、ブルックナーの交響曲。小泉和裕指揮東京都響による第 5番や、佐渡裕指揮東京フィルによる第 9番をこのブログでもご紹介したし、それ以外にもピエタリ・インキネン指揮日本フィルが第 8番を演奏した。そしてもうひとつの流れは、フランス音楽及び感性的にそれに近いもので、武満徹やスペイン音楽まで含めると、このブログでご紹介したものでは、秋山和慶指揮東京響やファンホ・メナ指揮 NHK 響、井上道義指揮新日本フィルの演奏会がそれに属する。そして今回、この流れにおける必聴のコンサートが開催された。読売日本響 (通称「読響」) の演奏会で、曲はメシアンの大作「彼方の閃光」、指揮は常任指揮者であるフランスの名匠シルヴァン・カンブルランである。実はカンブルランと読響は、1/25 (水) にも、デュカスの「ラ・ペリ」、ドビュッシーの夜想曲、ショーソンの交響曲という、これまた素晴らしいフランス音楽プロを組んだのであるが、私はそれを聴くことができなかった。それゆえもあり、このメシアンの大作はどうしても聴きたかったのである。カンブルランは1948年生まれの 68歳。指揮者として油の乗った年代であり、銀髪のポニーテールがトレードマークである。
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20世紀フランス音楽の巨星、オリヴィエ・メシアン (1908 - 1992) は、このブログでは既に何度も採り上げており、私がもらった直筆サインの写真も以前披露した。カトリックに基づく神秘的な宗教性や鳥の声を多くの作品のモチーフとし、数々の素晴らしい作品を残した。今回演奏された「彼方の閃光」は、この偉大な作曲家が完成させた最後の作品。ニューヨーク・フィル創立 150周年を記念して委嘱され、1991年に完成したが、作曲者は翌年死去、ズービン・メータの指揮するニューヨーク・フィルが世界初演したのは、作曲者の死後 5か月ほどを経てからのことであった。大規模な管弦楽による 11楽章、演奏時間 75分の大作である。この曲の日本初演は 1995年 3月22日、東京文化会館における若杉弘指揮東京都交響楽団によるものであった。私も当時それを聴きに行ったので、プログラムの写真をここに掲げる。作曲者の未亡人であるピアニストのイヴォンヌ・ロリオの日本初演に寄せるメッセージが貴重である。
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さてこの作品、この日本初演以来 22年間、何度演奏されたのであろうか。私の記憶にはほかになく、調べてみると、2008年に湯浅卓雄指揮の藝大フィルハーモニアで演奏されていることは分かったが、それ以外の実演があったのか否か。尚 CD では、恐らくチョン・ミョンフン指揮パリ・バスティーユ・オペラ管のものが世界初録音であろうか。それ以外にこのカンブルランがバーデン・バーデン & フライブルク SWR 響と録音しているし、あのサイモン・ラトルとベルリン・フィルによる録音もあるし、インゴ・メッツマッハーとウィーン・フィルも録音しているが、ほかのメジャー指揮者による録音は皆無である。と、そのような珍しい曲目だから会場はガラガラかと思いきや、なんのことはない、チケットは完売、サントリーホールは満員御礼の大盛況。東京おそるべしだ。これがカンブルランの録音。
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今回の演奏は、カンブルランと読響なら驚かないが、大変にクリアな素晴らしい演奏で、曲の持ち味を充分に表現したものであったと思う。実はこの曲、大編成のオケによる長大な曲ではあるのだが、すべての楽器が一斉に鳴り響く箇所はほとんどなく、管楽器だけ、弦楽器だけ、あるいは管楽器と打楽器だけという楽章が多くある。弦楽器の使用法も、常に高音に重きが置かれていて、弦楽合奏でもヴィオラの一部、チェロ、コントラバスが沈黙している箇所が多い。コントラバスに至っては、第 8楽章で初めて出番が来るが、演奏時間は大変短い。いつもオケの土台を支える縁の下の力持ちであるコントラバスは概して損な役回りが多いが、この曲に限っては、大変効率的な登場ぶりなのである (笑)。このような曲なので、緩やかなテンポの箇所ではその流れを保たなくてはいけないし、メシアン特有の神秘性を作為なく醸し出さなければならない。また、多くの鳥が鳴きかわす第 9楽章では分離よい響きが求められるし、第 10楽章でこの曲唯一の凶暴な盛り上がりに至ると、溜めていたパワーを全開しなくてはならない。終楽章ではトライアングルが一貫して鳴り響く中、美しい弦が空中を浮遊して天に消えて行かねばならない。カンブルランの指揮ぶりは隅々まで実に明確かつ確信に溢れたもので、オケとの相性も抜群であった。2010年から続くカンブルランと読響の関係は、いよいよ充実感を増してきたように思う。この曲自体が、例えばメシアンの代表作であるトゥーランガリラ交響曲のような大傑作であるか否かは一旦置くとしても、このような珍しい曲のこのような安定した演奏を聴くことができる東京は、やはり世界に誇る音楽都市であると言えると思うのである。

それにしても、4月から始まる読響の新シーズンのプログラムを見ると、その素晴らしいラインナップに対する期待感に胸が高まる。特にカンブルランのメシアン演奏は、今回に続いて次は11月に、あの超大作オペラ「アッシジの聖フランチェスコ」を、演奏会形式ながら全曲日本初演するというのが大きなニュースである。これは日本の音楽史上に残る事件になるのではないかという予感がする。尚 93歳の巨匠、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキの来日は 5月に予定されていたが、以前このブログにもコメントで情報を頂いた通り、彼は昨年 11月に脳梗塞を起こし、手術後の経過に鑑みて来日中止が発表された。残念ではあるが、ここは巨匠の回復を願いつつ、代役が誰になるのかを期待して待ちたいと思う。

さて、上に「彼方の閃光」の若杉弘による日本初演について書いたが、ひとつ面白いことを思いついた。指揮者若杉弘 (1935 - 2009) は、数多くの作品の日本初演を手掛けた人であり、凝ったプログラミングによる彼の活動が、日本の音楽シーンの発展に大きく貢献したことは論を俟たない。私が持つ彼の演奏会の思い出は沢山あるが、中でも忘れられないシリーズがある。それは、NHK 交響楽団とのブルックナー・ツィクルスである。それは彼がドレスデンのポストを解任 (? Wiki を見ると東西ドイツ合併によって音楽監督就任人事が白紙に戻ったとあるが、実際には何が起こったのであろう) されたあとの時期の、あたかもやり場のない怒りをぶつけるような、この温厚な指揮者としては異例の壮絶な演奏ばかりであったのだが、全曲予定されたブルックナー交響曲のライヴ・レコーディングも途中で頓挫してしまい、その実際の内容については、残念ながら正しく評価されていないように思う (ちなみに我が家には、全シリーズの FM での放送をエアチェックした DAT --- なんと懐かしい!! --- がある)。この場を借りてあの若杉 / N 響のブルックナーの素晴らしさを主張するとともに、そのプログラミングの妙についても、再評価したい。なぜなら、ブルックナーの全 9曲の交響曲それぞれと組み合わされていたのが、メシアンの作品であったからだ。この 2人の作曲家はカトリシズムという共通点はあるものの、実際の音楽の内容はかなり違っている。だが、その組み合わせは、聴いてみると非常に新鮮であった。そして気づくことには、今年 1月の東京の音楽シーンで、上記の通りブルックナーと、メシアンその他のフランス音楽がそれぞれに鳴り響いたことは、なんと、まさに若杉のプログラミングのようではないか!! そんな点にも、東京における音楽活動の発展を知ることができる。若杉が生きていれば、なんと言うことであろう。
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この機会にもうひとつ記録しておきたいのは、2月からサントリーホールが改修のために休館期間に入ることである。以下の写真は同ホールの 2階通路にある、月別にコンサートのチラシが貼ってあるコーナーだが、手前が 1月分、そして奥にポツンと 1枚だけ貼ってあるのが 2月分である。この 2月のコンサートはオルガンの連続演奏会とのことであり、少し特殊なもの。通常のオーケストラや器楽の演奏会としては、今回の読響のものが休館前最後のものということになる。
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開館 30周年を経て、このホールも改修が必要な時期なのであろう。ちょっと淋しいが、9月の再オープンまで、東京芸術劇場や東京オペラシティ、あるいはミューザ川崎や横浜みなとみらいホールで代わりのコンサートを楽しみたい。中には N 響のように、サントリーホールでの定期演奏会 (A/B/C 3シリーズのうちの B シリーズ) を、別の会場を使うことなく開催中止してしまうという、ちょっとびっくりな (笑) 楽団もあるが、ほかのオケは、別会場をやりくりして定期演奏会を継続する。各オーケストラの皆様には、それぞれに競い合いながら、東京の音楽シーンを、引き続き盛り上げて頂きたい。

# by yokohama7474 | 2017-02-01 01:32 | 音楽 (Live)

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この映画の本質は、上のポスターにある通り、「現代の戦争 その衝撃の実態」ということに尽きる。ストーリーは至ってシンプル。ケニアの首都ナイロビのある家において、イスラム過激派が自爆テロの準備を進めている。米軍のミサイルを積んだ無人ドローン機 ("Eye in the Sky" である) や、鳥型やさらに小さな虫型と言った飛行する動物のかたちをした隠しカメラ、また現地の協力スタッフの手によって、その情報をつぶさにつかんだ英国諜報機関が、自爆テロを未然に防ぐためにテロリストたちのアジトにミサイルの標的を定める。だがその時、隣家の貧しい少女がそのアジトの塀に沿った路上に机を置いて、パンを売り始めた。このままテロリストたちを放置すれば、ほどなく数十人規模の死傷者が出ることは確実。だが今ミサイルで攻撃すれば、無実の少女の命は明らかに危険にさらされる・・・。さあ、いかなる決断がくだされるのか。この子は、普段の通りの生活をしているのであろうが、まさかこの日、遠く遠く離れたロンドンのオフィス及び諜報機関の司令部、米国の空軍基地やホワイトハウスから自分が見られており、また自分の命が危険にさらされていることを夢にも知るわけがない。
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これは決して甘い内容の理想主義的な反戦映画ではなく、見る者全員、今この瞬間にはいかなる意味でも戦争に無縁の者たちに対してすら、当事者さながらの決断を迫る、実に実に厳しい内容の映画なのである。昨今は戦争を極めてリアルなドキュメンタリータッチで描く映画が多くなっており、問題作は数多い。だが本作は、ドキュメンタリー風ではないにも関わらず、容赦なく観客の心に深く入ってくる仮借ないもので、極限状態における人間の尊厳を描いたフィクション映画として、ほかの作品にはない高い価値を持つものである。それ以上私には綴る言葉もないが、願わくば自分が何か重要な決断を迫られる状況に置かれたとき、誰か他人の責任で自分は関係ないとか、組織の命令でしょうがないとか、そういったことを考えることのない人間、いわば思考を停止することのない人間でありたいと、切に思う。この映画に「パイロット」として出てくる兵士 (演じるのはアーロン・ポールという俳優) は、パイロットと言っても空中で航空機を操縦するのではなく、要するにナイロビ上空を飛んでいるドローン兵器を遠く離れた米国ネヴァダ州で操縦しているのであるが、息の詰まるような極限状態においても、思考する人間であることをやめなかった。なんという素晴らしいことか。もちろん、そのことがすぐに少女の命を救うか否かは、誠に痛々しいことに、別問題であるのであるが。
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この映画の製作者のひとりは、英国の名優コリン・ファース。彼が出演した近作ではなんといっても、このブログでも絶賛した「キングスマン」が素晴らしいが、あの映画にあふれる自由に羽ばたく遊び心だけではなく、極めてリアルな問題意識を世の中に問うだけの度量がある人であると実感する。
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そして、この作戦を英国諜報部で指揮するキャサリン・パウエル大佐を演じるのは、これも英国を代表する名女優、ヘレン・ミレン。ここでの彼女は、いつも通り素晴らしいとしか言いようがない。決断力と正義感と合理性と、そして強引な手腕を持ちながらも、人間的な面を維持している、このような軍人がもし多ければ、世界はまだ少しは信頼できるような気がする。
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そして、ロンドンの国家緊急事態対策委員会で画面を見ながらパウエル大佐に指示を出すフランク・ベンソン中将を演じるのは、69歳にして昨年膵臓癌で亡くなった名優、アラン・リックマンである。以前も書いたが、ハリー・ポッターシリーズのみならず、「ラブ・アクチュアリー」などの作品でも渋い味を出していた。この作品は、声の出演だけであった「アリス・イン・ワンダーランド / 時間の旅」に先立つもので、演技を伴う出演作としてはこれが遺作であり、エンドタイトルにおいて、彼に捧げるとのメッセージが出てくる。ここでの演技はまさにこの役柄にふさわしい複雑なものであるだけに、改めて惜しい俳優を亡くしたものであると思う。この映画における彼の最後のセリフは大変に重いので、これからご覧になる方は是非その重みを味わって頂きたい。
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この映画の副題、「世界一安全な戦場」とは、現地ナイロビからの映像を見ながら少女の命を危険にさらす、英米の軍人や政治家たちのいる場所を指す。確かに現代の戦争の多くは、テレビゲームさながらの遠隔操作による爆撃によって遂行されていることくらいなら、我々もマスコミ報道によって既に知っている。そして、時には誤爆による民間施設への攻撃も耳にすることがある。無差別自爆テロによる被害も悲惨なものであるが、テロとの戦いに一般市民が巻き込まれるということも、これはもう、言葉がないほどに悲惨な事態である。そんなことは分かっているつもりであったが、だがこの映画を見ると、世界の現実はそれほど単純なものではないということが分かる。ミサイル発射の是非を巡って交わされる様々な会話は、さながら奔流のようにあちらに流れこちらに流れ、ついにはシンガポールで下痢に苦しむ英国外務大臣や、中国で卓球による親善を試みる米国国務長官など、首脳たちの居場所を求めて世界を走る。軍の幹部や政府首脳たちは、それぞれの大義と職掌に基づき、時にはリスクヘッジを企図して発言をし、議論は議論を呼んで結論はなかなか出ない。その様子には本当に手に汗握るものがあるのだが、ビジネスマンの方々には、是非彼らの英語を注意して聞いて頂きたい。日本語で果たして、このような議論ができるであろうか。それは何も軍事上の議論ではなく、日常のビジネス活動における議論に置き換えてみてもよいと思うのであるが、ともすれば責任が不明確だと言われがちな日本のシステムは、(「シン・ゴジラ」を思い出すまでもなく) 一般人の命のかかった場面に対処できるのであろうかと思ってしまうのである。一例を挙げると、「シン・ゴジラ」における何度も聞かれた言葉は、「総理! ご決断を!!」であった。これは政府の緊急会議において大勢が総理を取り囲んだ状況において発される言葉であり、江戸時代であればこの「総理!」の部分がそのまま「殿!」であっただけで、きっと同じような光景があちこちで繰り広げられていたであろう (笑)。ここではあくまでも決断するのは殿であり総理という「個人」であるが、案を提言するのは合議を経た「集団」である。ところがこの「アイ・イン・ザ・スカイ」でしばしば見られるのは、指令を出すべき「個人」 (軍人) が、その指令を許可する権限を持つ「個人」 (政治家) に対し、"Do I have permission?" (しかも英国式に語尾を下げたイントネーションで) と尋ねるシーンである。つまりここで「許可」を与えられるべき主体は飽くまで発言者個人、"I" なのであり、個人の責任が明確な欧米式意思決定である。この違いは大きい。これは「シン・ゴジラ」において大杉漣演じる苦悩の首相。
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だがもちろん、私は欧米流のやり方が常に正しいと主張するつもりは毛頭ない。戦争とは所詮人間のやっていることであるという限界は、言語やシステムを問わず冷厳に存在していると思わざるを得ないし、この映画は実際にそこまでズカズカと入り込んで行く内容になっているのであり、その点こそがこの映画の素晴らしい点である。私はこの展開にハラハラドキドキし、納得したり心の中で反対の声を上げたり、巻き込まれそうになっている無垢な女の子がかわいそうで涙が出そうになったり、本当に椅子に座っているのがつらいような時間を過ごすこととなった。このような素晴らしい作品をまとめ上げたギャヴィン・フッド監督は 1963年、南ア生まれ。
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過去の作品としては、「ウルヴァリン : X-MEN ZERO」や「エンダーのゲーム」があるが、あまり知られていない名前である。南ア出身の映画監督と言えば、「第 9地区」「エリジウム」「チャッピー」のニール・ブロムカンプがいるが、このギャヴィン・フッドよりは一回り下。だがどちらもこれから期待できる名前である。

この映画は見るものに何か強烈なものを突き付ける。それは戦争の真実であるとともに、映画という文化の一分野の持つ素晴らしい表現力であると思う。なかなかそのように思える映画に出会えることは少ないので、是非一見をお薦めする。

# by yokohama7474 | 2017-01-31 00:16 | 映画