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ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 3 2016年 5月 5日 東京国際フォーラム ホール C_e0345320_22355836.jpg
3日間に亘って朝から晩までクラシック音楽が演奏される祭典、ラ・フォル・ジュルネ (と今まで律儀に書いて来たが、しばしば LFJ の略号で呼ばれる) 音楽祭も今回が最終日。以前の記事でも書いた通り、私はこの音楽祭でそれほど頻繁にハシゴを楽しむわけではなく、今回は基本的に 2つの演目に絞ったのであるが、そのうちの 1つは、長い曲がたまたま 3日間に分かれて演奏されたわけで、今回はその最終回。フランス人ピアニスト、ピエール = ロラン・エマールによるメシアンの大曲「鳥のカタログ」の第 3回である。

この音楽祭、以前にもご紹介した通り大変な規模なのであるが、動員されているスタッフ (若い人たちばかりだ) の数も大変なもの。3日間つつがなく終えるだけでも相当な苦労が伴うものであろうと思う。ただ、会場に当日券を求めて長蛇の列ができるということにはなっていないようだ。以下は、昨日と今日の表示である。
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これらの表の縦の列はホール別になっていて、貼ってある黒地に白文字の札は "SOLD OUT" である。そうすると、いちばん左端、緑色の表示のホール A と、左から 4番目、赤色の表示のホール C の公演を除いては、ほとんど SOLD OUT ということだ。このホール A は収容人員実に 5008名、ホール C は 1494名。つまり、その席数の多さゆえに、売切れにまではなっていないわけで、例外的にそれらのホールで売切れになっている公演は、主に家族向けの内容だ。まぁなんと盛況であることか。ここにはマニアックさは感じられず、非常に開かれた音楽祭の姿勢が見える。それゆえにこの音楽祭はこれだけポピュラーなのであろう。

さて、今日のエマールの演奏は、これまでの 2日間の会場であったホール D7 (221名収容) とは異なり、その数倍の規模を持つホール C (1494名収容) である。あえて言えば、この LFJ の会場となっている東京国際フォーラムの 6つの会場のうち、このホール C は、まともにコンサートを開くことのできる唯一の会場ということになろう。まともという意味は、それなりに音響が音楽鑑賞に適しているという意味で、これまでの彼の演奏で使われていたホール D7 は、大きすぎることはないものの、音楽演奏用というよりは、完全にレクチャー用のスペースであった。その点今日の演奏は、それなりにステージに近い席で聴けた私としては、これまでの 2回とは比較にならないほど鮮烈に、ピアノの響きを堪能することができたのである。
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そして今日のエマールは、会場の大きさのせいであろうか、過去 2回と異なり、鳥の映像を壁に映すこともなければ、ピアノを弾きながら細かい解説をすることもなかった。ただ開演前には今回も通訳を連れて出てきて、今日演奏する残りの 3曲についての説明を行ったのである。その意味においては、最初の 2日間を聴くことなくこの 3日目だけを聴いた人には若干気の毒だ。これはやはり 3回合わせて初めて完結するシリーズなのである。今回は過去 2回と違う試みとして、エマールの友人らしいベルナール・フォールなるエレクトロ・アコースティック音楽 (って妙な言葉だが) の作曲家であり鳥類学者である人が作成した、このメシアンの「鳥のカタログ」へのオマージュとしての 13種類の鳥の鳴き声から、今回演奏される 3曲の題名になっている鳥に絞って、それぞれ録音が流された。今回の 3曲は以下の通り。
 モリヒバリ (第 3巻から)
 モリフクロウ (第 3巻から)
 ヨーロッパヨシキリ (第 4巻から)

ここでエマールいわく、最初の 2種類は夜行性なので暗い中で鳴く鳥、そしてちょうど最後の曲の途中で正午になって午前から午後に移る頃合いに最高音域のトリルが奏されると説明して、そのトリルを (最高音域だから当然右手で奏されるべきところを、右手にはマイクを持っていたので) 左手で弾いたのである。そういえば昨日の解説でも、左手のパートと右手のパートをまずは別々に弾いて、それが合わさるとこうなりますという実例を聴かせてくれたし、メシアンがこの曲を作曲するにあたって腐心した要素として、音の色彩感を挙げていた。その色彩感も、これだけ自在な演奏でなければ感じることはできないわけで、やはりその卓越した技術と探究心、そしてショーマンシップが組み合わさることでエマールならではの世界が出現していたと思う。

このメシアンの大曲の中で最長、30分の演奏時間を要する曲の題名は、ヨーロッパヨシキリ。こんな鳥で、さほど珍しそうにも見えないが、日本には生息していない種類の鳥のようである。曲は千変万化の多彩なもので、聴いているうちに神秘的な感情に満たされるのである。
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この 3日間、エマールの恐るべき演奏技術が余すところなく描き出した鳥たちの音楽は、この世界の成り立ちについての瞑想を伴う深遠なものであり、これからもそうそう体験できないものであろう。私の手元にはメシアンの全作品を収めた 32枚組 CD セットがあるが、正直なところ、なかなかそれを取り出して 1枚ずつ聴く気にはなれない。でも今回のような体験をすることで、まだまだその創作活動の全容を理解したとは言えないこの作曲家に少しでも近づくことができるような気がする。これだけ多くの人たちを動員するポピュラーな音楽祭でそのような経験ができるとは、うーん、本当にすごいことだと思う。

以前、群馬交響楽団がメシアンの代表作、トゥーランガリラ交響曲を演奏したときの記事に掲載した、私自身が 1986年の来日時にメシアンから直接もらったサインの写真を再度掲載して、この記事をしめくくろう。音楽経験にもいろいろあるが、ゼロから音楽を創作した作曲家への敬意を感じる瞬間は、大変貴重であると思う。
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# by yokohama7474 | 2016-05-05 21:21 | 音楽 (Live)

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 2 2016年 5月 4日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_22355836.jpg
フランスが生んだ現代音楽の鬼才、ピアニストのピエール = ロラン・エマールの独奏によるオリヴィエ・メシアン (1908 - 1992) の壮大な曲集、「鳥のカタログ」の、昨日に続く第 2回である。エマールは 1957年生まれなので、今年まだ 59歳。とにかく現代音楽 (って、100年くらい前の音楽も指しますがね) の分野においては並ぶ者のない存在で、そのひとつの証左は、メシアンの弟子でもあり、やはり現代音楽に大きな足跡を残した大作曲家 = 大指揮者であったピエール・ブーレーズが 1977年にアンサンブル・アンテルコンタンポランを創設するときにピアニストとして採用されたということである。そのときわずか 20歳の若者であったわけだ。日本で知られるようになったのはそれほど古いことではないと記憶するが、まあそれはもう鮮やかなテクニックで人々を唖然とさせるピアニストなのである。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 2 2016年 5月 4日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_22474848.jpg
既に初回の記事で書いた通り、このエマールほどの一流のピアニストが、メシアンの超大作の細部について語り、その鳴き声が再現されている鳥の映像まで見られるとは、大変に貴重な機会なのである。繰り返しだが、このメシアンの「鳥のカタログ」は全曲演奏に 2時間30分以上を要するソロ・ピアノのための曲で、全曲は 7巻 13曲からなっている。今回のエマールの演奏では、曲順はもともとのものから自由に変えられており、今回演奏されたのは以下の 5曲。
 カオグロヒタキ (第 2巻から)
 キガラシコウライウグイス (第 1巻から)
 ノスリ (第 7巻から)
 イソヒヨドリ (第 1巻から)
 ダイシャクシギ (第 7巻から)

うーん、相変わらず知らない鳥の名前が多い (笑)。唯一ユスリタカリ、いや違った、ノスリだけはなんとなく分かるぞ。猛禽類の一種。こんな鳥だ。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 2 2016年 5月 4日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_22542924.jpg
実は私はこのコンサートを聴く前に、上野の東京都美術館で超大混雑の若冲展を見てきており、もしかするとエマールも会場に足を運んだとすると面白いなぁと夢想していたのである。プライス・コレクションの若冲最晩年の鷲図など見ると、エマールほどの芸術家なら何かを感じて、それが演奏に活きるはず。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 2 2016年 5月 4日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_23000219.jpg
まあ、開館前からあれだけの長蛇の列なので、なかなか鑑賞は容易ではないが、エマール対若冲という思いもかけない顔合わせが実現するかもしれない東京という街は、なかなかすごいところだと強調しておこう。若冲展の記事は、当然ながら追って書くが、ちょっと記事のネタが溜まっているので、少し先になってしまうでしょう。

まあそれはそれとして、今回もエマールの演奏は鮮烈極まりない。昨日の記事で書き損ねたが、彼が曲の解説の中で言っていたのは、この長大な曲には様々な鳥の鳴き声の模倣は出てくるものの、それだけではなく、鳥の暮らす環境、つまり、峨々たる岩山もあれば、海もある。メシアンはそれをみごとに音で描いているということらしい。今回の演奏でもそれは何度か強調された (ちなみに、投影された鳥の映像には、いくつか昨日と同じものもあった)。面白かったのは、昨日の演奏会ではこの曲集の冒頭の曲が演奏され、今日の演奏会では最後の曲が演奏され、そして明日の演奏会ではちょうど真ん中の、全曲でも最も長大な曲が演奏されるということ。これはエマールの解釈と密接に関連する選択であろうと思う。

因みにこのメシアンの「鳥のカタログ」、書き始められたのは 1956年で、完成は 1958年。エマールによると、当時メシアンはいかに新しい音楽を創造するかで大いに努力を続けていたため、この曲集には随所に作曲者の工夫が見られるという。初演者はメシアンの妻であるイヴォンヌ・ロリオ。我々のよく知る彼女の肖像はこのような眼鏡のおばあさんだ。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 2 2016年 5月 4日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_23134283.jpg
ところがネット検索すると、若い頃の写真も見つかる。これ、どうですか。マン・レイのシュールな写真かと見紛うばかりの洗練ぶりだ。うーん、でも見比べると確かに上のおばあさんと同じ顔に見える。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 2 2016年 5月 4日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_23145149.jpg
尚、今回エマールが説明するには、2曲目に演奏された第 1巻のキガラシコウライウグイスは、フランス語で「ロリオ」というらしい。愛妻の苗字と同じであるのは偶然か故意か。因みにコウライウグイスとはこんな鳥。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 2 2016年 5月 4日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_23184112.jpg
メシアンの音楽を純粋に楽しむ際に、このような情報は余分かもしれない。だが、私はエマールの説明と演奏を聴きながら、いつのまにやら人間が過ごす時間の有限性といったようなことを考えていた。この作曲家が苦労して音にした鳥たちは、皆既にあの世に飛び立っており、初演したピアニストも作曲家自身も、既にこの世の人ではない。でも彼らが精魂込めて作り上げたこの音楽は、60年を経てもこのように多くの人が耳を傾けるのだ。鳥の鳴き声が様々であるように、人の生き様も様々。この長い曲の作曲を通してメシアンが伝えたかったメッセージは、限られた時間だけこの地球上に暮らすことを許された命の尊さではなかったか。そう言えば、今日見た若冲の奇跡の連作、動植綵絵に込められたメッセージもそれと共通する。冴えわたるエマールのタッチに耳を澄まし、しばしの沈黙に命の意味を考えているとき、隣の席のオバサンのお腹が、グゥ~ッと大きく鳴った (笑)。このコンサートは 13時30分スタート。皆さん昼食を取ってから来られていて、この音楽を聴きながらその昼食を消化中ということにならざるを得ない。そうだ。これこそ生きている証。もしメシアンが聴いていれば、その腹の音も音楽の重要な要素の一部、全然 OK! と、親指を立てたに違いない・・・???
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 2 2016年 5月 4日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_23331751.jpg
このコンサートでは、エマールの人となりを示すちょっとしたトラブルがあった。演奏の合間にステージ後ろの壁に投影される鳥の映像で、未だエマールの説明が済んでいないのに出てしまったものがあった。そのときエマールは手を振りながら "No, no, sorry." と英語を喋ったのだ。聴衆に対する説明は一貫してフランス語であるにもかかわらず、ここで英語を使ったのは恐らく、投影を担当するスタッフと事前に英語で打ち合わせをしていたからではないか。なので、このときの彼の発言は、誰にともなく発されたものでなく、そのスタッフに向けられたものであったろう。スタッフをないがしろにしない彼の人柄が表れていたと思う。演奏後は譜めくりの若い女性や通訳にも握手を求めていて、大変丁寧な応対ぶりだと思ったものだ。

さて、明日演奏される第 3回は、演奏時間が 60分。全 13曲のうち既に10曲演奏済なので、残り 3曲だが、そのうちの 1曲、第 4巻の ヨーロッパヨシキリだけで演奏時間 30分を要する。いよいよクライマックス。腹が鳴らないように気をつけながら、心して聴きたいと思う。

# by yokohama7474 | 2016-05-04 23:41 | 音楽 (Live)

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 庄司紗矢香 (指揮とヴァイオリン) ポーランド室内管 2016年 5月 3日 東京国際フォーラム ホールB7_e0345320_22544280.jpg
前回の記事で採り上げたラ・フォルネ・ジュルネ・オ・ジャポンの初日、エマールの弾くメシアンを聴きおえて足早に次の会場に向かって聴いたのがこのコンサートだ。エマールのコンサート終了が 20時頃。その時刻はちょうどこのコンサートの開場の時刻であって、こちらは開演が 20時30分だ。このように聴衆がコンサートのハシゴをするのもこの音楽祭の特徴である。もっとも、ちょい小腹が減ったこともあって、屋台でケバブなど頬張ってからの移動となった。屋台の皆さん、ありがとう!!

今や名実ともに日本を代表するヴァイオリニストとなった庄司紗矢香であるが、このラ・フォル・ジュルネでは随分以前からの常連演奏家であり、本家本元のナントでの音楽祭にも頻繁に出場している。なんでも今年 2月のラ・フォル・ジュルネ・ナント (テーマは東京でのものと同じ「自然」) で最も話題となったのが、この彼女とポーランド室内管との演奏会であったらしい。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 庄司紗矢香 (指揮とヴァイオリン) ポーランド室内管 2016年 5月 3日 東京国際フォーラム ホールB7_e0345320_17300122.jpg
ここで演奏されたのは、ヴィヴァルディが作曲したあの有名なヴァイオリン協奏曲集「四季」を、1966年ドイツ生まれ、英国育ちの作曲家マックス・リヒターが「リコンポーズ」したもの。このリコンポーズという言葉は、このコンサートの会場で配られている一枚物の説明書きからそのまま引用しているが、直訳すれば「再作曲」ということ。つまり、編曲ではなくて、「四季」という曲をもとに新たな作品を創造したという意味である。これがマックス・リヒター。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 庄司紗矢香 (指揮とヴァイオリン) ポーランド室内管 2016年 5月 3日 東京国際フォーラム ホールB7_e0345320_17372834.jpg
実は私はこの作品をほとんど予備知識なしに聴きに行ったのだが、唯一の情報としては、どこかで目にした「庄司紗矢香、初めて電子楽器と共演」いう一節であって、一体なんだろうと思っていたら、なんのことはない、一部シンセサイザーを使っているというだけであった。「電子楽器」などという前世紀の仰々しい用語を使わずともよいだろう (笑)。一言で言ってしまえばこれは、ミニマル・ミュージックである。この言葉はミニマル・アートと対になる言葉で、要するに小さな部分を少しずつパターンを変えながら繰り返す様式だと思えばよいだろう。1960年代に米国で生まれた様式だと言われる。この時代はもちろん、冷戦の時代、反戦の時代、ヒッピー文化の時代であり、ミニマル・ミュージックの無機的な陶酔感には、もともと熱さと冷たさの入り混じる独特のトリップ感があって、いかにもこの時代の雰囲気にふさわしい。もちろん、その後時代は移り変わり、その受容にも、もちろん作り手側のメッセージにも、当然様々な変遷がある。私は実はこの種の音楽が大好きで、第一世代であるテリー・ライリーやスティーヴ・ライヒのステージやレクチャーには、日本や米国で何度も接しているし、また、フィリップ・グラス、ジョン・アダムズ、マイケル・ナイマンなどは山ほど CD を持っている。なので、今回この演奏を聴き進むにつれ、「お、なんだ。ミニマルか」と気づくと、既知のあれこれの音楽 (もちろんヴィヴァルディの「四季」を含む) を思い出すことで、大変刺激的な機会を持つことができた。

曲の構成は、ヴィヴァルディの原曲そのままで、春夏秋冬それぞれ 3楽章ずつ、つまり全部で 12楽章ということになる。使われている素材はそれぞれの楽章の原曲のもので、それは耳ですぐに分かる (また、各季節ごとに照明が変わって、季節感を演出する)。ところがこれはミニマル・ミュージックであるからして、その定義にある通り、断片が繰り返し演奏されることになり、なるほど素材はバロック音楽のヴィヴァルディなのだが、聴こえてくる音は、細部の音形やリズムが変容し、調も変えられることによって、ミニマル特有の、都会の孤独を背負った疾走感のようなものを伴っている。「春」の第 1楽章の冒頭は誰でも知っている有名な曲であるが、ここではそれは登場せず、その楽章のパッセージの断片がクローズ・アップされ、それが繰り返されるうちに、気が付くとヴァイオリン・ソロと弦楽合奏が立派なミニマル・ミュージックを奏でているのだ。これは特にフィリップ・グラスに顕著なのだが、短い音形が繰り返されて盛り上がったところで突然音楽が切れるという特徴がミニマルにはあり、ここでもそれを頻繁に聴くことができて大変に面白かった。おっと、ヴィヴァルディを素材にそうやって遊ぶか、というシーンがあちこちで見られたので、全く退屈することはなかった。その意味ではこの曲、パロディ音楽と言ってもよいと思うのだが、この種の音楽を、「パロディでございます」とふざけてやったのではダメなのだ。その点、庄司らしく非常に真剣に、また高い士気をもってこの曲に取り組んだことが (あ、もちろん技術的には全く余裕があるだろうが 笑)、結果的には曲の本質を表したと評価できるように思う。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 庄司紗矢香 (指揮とヴァイオリン) ポーランド室内管 2016年 5月 3日 東京国際フォーラム ホールB7_e0345320_18053068.jpg
思い返すと、「秋」の第 1楽章や「冬」の第 1楽章は、かなり原曲に近い始まり方をして、そこでヴァイオリン・ソロの見せ場もあったのだが、原曲と大きく異なったのは、その最終曲、つまり「冬」の第 3楽章だ。原曲では音楽は重層的に疾走して終わるのだが、ここではゆったりとした音楽で、何やら広がりのある抒情性、あるいは哀しみのようなものを感じさせた。思い出したのは、アルヴォ・ペルトの名作「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」である。ペルトの作風はミニマルに近いが、やはり米国のミニマルとは違って、エストニアの自然を思わせるものである。私が生涯で初めて耳にしたペルトの曲は、まさにこの「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」で、もう 30年近く前であろうか、リッカルド・シャイーが、当時まだベルリン放送交響楽団と名乗っていた現在のベルリン・ドイツ交響楽団を演奏したライヴを FM で聴いたのであった。その頃はこの作曲家は日本では全く無名で、私はエアチェックしたこの曲のカセットテープを何度も繰り返し聴いて、その度に感動に打たれていたものだ。今 21世紀に至って、このような音楽に若い世代がどのように反応するのか分からないが、私と同世代、1960年代生まれ (ということは、ちょうどミニマル・ミュージックが生まれた頃に生を受けたということだ) の作曲家リヒターの感性には、「四季」によってインスパイアされた創作術をこのようなかたちにして聴衆に提示したいという欲求があるとすると、そこには時代と切り結ぶ姿勢がありはしないだろうか。ヒッピー時代とは異なり、今や世界を覆う秩序や原理や対立の構図は見えにくく、いかに浮かれた出来事があろうとも、常に哀悼の歌がふさわしい時代。まぁ、そう深読みする必要はないかもしれない。古いものから新たなものを生み出す芸術家の姿勢に、まずは好感を持つということでよいとも言えるだろう。今回、音楽祭のサイトに作曲家のコメントが載っているので引用しよう。

QUOTE
今回、「四季」のリコンポーズが東京で初演されることを大変うれしく思います。庄司紗矢香さんの演奏はドイツのテレビで初めて拝見しましたが、非常に素晴らしいヴァイオリニストです。「四季」のリコンポーズは、ヴィヴァルディという風景(ランドスケープ)の中を旅していく"実験的な旅行"として作曲しました。ヴィヴァルディは「四季」の中で、思わず探索したくなるような美しい風景の数々を表現しています。彼の音楽がすぐれている理由のひとつは、まさにそうした風景にあると思いますし、そこからリコンポーズの着想も浮んできました。演奏をお楽しみください。
UNQUOTE

なるほど、「実験的な旅行」ですか。その意味では、今回庄司は初めて (だと思う) 指揮も手掛けていて、士気高い四季の指揮ではシャレにもならないが、やはり音楽祭のサイトで見ることのできる彼女のインタビューによると、なんと、ナントでの (これもシャレにならない 笑) リハーサルの初日に、指揮者なしで演奏することを初めて知ったとのこと。なかなかの大物である (笑)。指揮と言っても、多くは自分でソロを弾きながら、オケにキューを与えるくらいであったが、このポーランド室内管は、同国の名指揮者、イェジー・マクシミウク (私は彼のファンである) が結成したオケで、大変優秀だ。ミニマルのビート感に合わせることさえできれば、この演奏には大して苦労はしなかったろう。

さてこの演奏、実は今日、5月 4日も、18時30分から (あ、ちょうど今だ!!) 繰り返される。ところが今回の会場はホール A で、これは 5008名収容の大ホールである。私が聴いた B7 は 822席で、シンセサイザー以外は PA を使用していないように聴こえたが、ホール A では明らかに無理だ。まぁ、PA を目の敵にするのはクラシック・ファンの悪い癖であるが、やはり弦楽器はアコースティックで聴きたいなぁと思うもの。その点、私が次に聴く庄司の演奏会は今月末、神奈川県立音楽堂での無伴奏リサイタルであって、これはまさに真骨頂を聴ける機会であろう。広い視野と文化的な事柄への興味を持ち、常に新たな挑戦を続ける芸術家は信用できる。期待しております。

# by yokohama7474 | 2016-05-04 18:27 | 音楽 (Live)

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 1 2016年 5月 3日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_22544280.jpg
今年もゴールデン・ウィーク恒例のイヴェントがやってきた。大規模なクラシック音楽の祭典、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンだ。その毎年の盛況ぶりに鑑みて、必ずしもクラシック音楽ファンでない人たちにもそれなりに知名度のあるイヴェントになっていると思うが、これはもともと、ルネ・マルタンという人の提唱により、フランスのナントで始まった音楽祭で、過去 20年ほどの間に世界各地でこの名前を冠した音楽祭が開かれるようになっているのだ。東京でも 2005年から毎年 5月 3・4・5日に有楽町の東京国際フォーラムで毎年開催されている。この「ラ・フォル・ジュルネ」というフランス語は、「熱狂の日」という意味であるが、これはモーツァルトの名作オペラ「フィガロの結婚」の原作であるボーマルシェの戯曲の題名 (日本語では「狂おしき一日、またはフィガロの結婚」という題が一般的) に由来するものらしい。そうだ、あの物語では、ある一日のうちに様々なことが起きるわけで、まさに狂おしい一日が描かれているわけだ。この音楽祭、普通と違うのは、そのような狂おしい一日を彩るために参加する音楽家の圧倒的な数である。第一線で活躍中の世界的な音楽家から通好みの珍しい人や楽団、また昔懐かしい演奏家まで、それはそれは大変な幅を持ったラインナップなのである。そして、1回あたりの演奏会の時間は 45分程度で休憩なし。そしてチケット代は、最高でも 3,000円とお手頃。毎年テーマを決めて、そのテーマに関する様々な曲があれこれ演奏される。会場の東京国際フォーラムはホールや会議室を沢山持つ大型施設であるが、この音楽祭の期間中には 6つのホール (収容人数 153 からなんと 5008!! まで) がフル稼働。文字通り朝から晩まで (本当に朝 10時から夜 10時まで!!) 入れ代わり立ち代わり、いろんな演奏家がいろんなコンサートを繰り広げるのだ (まあ世の中にはいろんな業界があるので軽々には言えないが、3日間連続でこの巨大施設がフルに使用されるイヴェントが、ほかにそうそうあるとは思えない)。お客はそのひとつを楽しむもよし、ハシゴするもよしということになる。そのため、会場中央のオープンスペースには飲食物を提供する屋台もあり、そこでも時折音楽が演奏されるのだ。まさに音楽漬け。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 1 2016年 5月 3日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_23312854.jpg
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 1 2016年 5月 3日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_23325510.jpg
クラシック音楽のイヴェントとも思えないほど多くの老若男女が集うまさに熱狂の日、それがラ・フォル・ジュルネなのである。主催者ルネ・マルタンが「クラシックの音楽祭がなぜ 100万人を集めたのか」という本を書いていて、私もそれを以前読んだが、なんとも驚くべきイヴェントがこのラ・フォル・ジュルネであり、日本でも既に東京だけでなく、今年は新潟、びわ湖、金沢でも開かれるのだ。今年のテーマは「自然と音楽」。過去には特定の国や時代がテーマになっていることが多かったが、今回のテーマはかなり幅広い内容を許すものであろう。自然に触発されて書かれた曲や、自然を表そうとした曲や、まさに千差万別。因みに有料公演一覧はこちら。
http://www.lfj.jp/lfj_2016/performance/timetable.html

私も過去何度かこの音楽祭に来ているし、金沢まで聴きに行ったこともある。正直、スケジュール表を見ているとあれこれ行きたいとは思うものの、若干胃もたれぎみにもなる。そんなわけで今回は 4つの演奏会を選んだ。とは言っても実際そのうちの 3つはひとつの内容を演奏時間の関係で分けてあるだけなので、実質的には 2つということになる。

この記事で採り上げるのは、その 3分割されたコンサート。現代最高のピアニストのひとりで、特に現代音楽にかけては並ぶ者のないフランス人、ピエール = ロラン・エマールのリサイタルである。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 1 2016年 5月 3日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_23385536.jpg
彼が今回弾くのは、20世紀音楽の巨塔、オリヴィエ・メシアンの超大作、演奏時間 2時間半超を要するソロ・ピアノのための「鳥のカタログ」である。全 7巻、13曲から成っており、様々な鳥の鳴き声を模した超絶技巧のオンパレードである。各曲に鳥の種類が題名としてつけられているが、題名となった種類以外の鳥の鳴き声もあれこれ入っており、全部で実に 77種類の鳥の声が使われているとのこと。私はロシアの鬼才ピアニスト、アナトール・ウゴルスキの 3枚組の CD を持っているが、いかんせん輸入盤なので、鳥の種類の日本名が分からず、その意味ではどの曲がどんな鳥というイメージは全くない。まあ、鳥の種類を日本名で聞いたところで、そちら方面に疎い私には、あまり意味はないとも言えるが (笑)。

今回はこの長大な曲の 3回シリーズの 1回目ということであったが、スケジュール表によると演奏時間 75分とある。げげっ、これはラ・フォル・ジュルネの原則を破る長さではないか!! そして実際にコンサートが始まってみて納得。なんと、あのエマールが自分で曲を解説してくれ (フランス語の通訳つき)、かなりの種類の鳥については、映像で実際に鳴いているところを投影してからの演奏ということになって、まあその、鳥の名前をまるで覚えられない私でも、ふむふむなるほどという感じにはなったものだ (笑)。しかも演奏順序は、オリジナルの順番とは異なって、毎回エマールの選択とおぼしき順番となるようだ。今回の演奏曲は以下の通り。
 キバシガラス (第 1巻から)
 ヨーロッパウグイス (第 5巻から)
 コシジロイソヒヨドリ (第 6巻から)
 ムナジロヒバリ (第 5巻から)
 クロサバクヒタキ (第 7巻から)

いやー、そんな鳥、どれも知らないって (笑)。実はコンサート入場時に受け取った、簡単な曲目と演奏者紹介の紙 (ちなみにこの音楽祭、以前は公式プログラムを作成していたが、今回は見当たらなかった。コスト削減だろうか) には 4曲しか記載がなかったところ、実際には 5曲演奏されたので不思議に思っていたところ、帰りがけに出口に 1曲追加の表示があって、無事、5曲すべての題名を知ることができました。って言っても、しつこいようだがどの鳥も知りませんがね (笑)。ちなみにこれが最初に演奏された曲の題名になっているキバシガラス。くちばしが黄色いカラスということなんでしょうな。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 ピエール = ロラン・エマール ピアノ・リサイタル 1 2016年 5月 3日 東京国際フォーラム ホール D7_e0345320_00241291.jpg
このコンサートは 18時 45分開演であったが、エマールは登場すると同時に、「にんにちは、だか、こんばんは、だか分かりませんね。ラ・フォル・ジュルネでは朝から晩まで音楽尽くしで、まるで鳥の歌のようですから」と冗談を口にして場内を笑わせた。気難しそうに見えるが、さすがフランス人、エスプリがきいています。いやそれにしても、鳥の映像の後に、その鳥の鳴き声をメシアンが模倣した凄まじいパッセージを、何事もないようにパラパラと弾いてみせるエマールの技術には舌を巻く。しかもその解説ぶりが非常に面白く、例えば、この曲にしばしば聴かれる無音状態は、ただ無音であるだけでなく、沈黙に耳を澄ませる姿勢から瞑想につながるようなものであるとか、ベートーヴェンのソナタ (第 18番「狩」の第 1楽章が引用された) のリズムパターンがある鳥の鳴き声としてメシアンが使ったものと一緒であるとか、ある箇所はペダルの効果がまるでオルガンのようだとか (メシアンはオルガン奏者でもあった)、曲によっては、羽ばたくような鍵盤上の両手の動きそのものが鳥の飛翔の姿を模しているのかもしれないとか。そして最後の曲では、「これは砂漠の鳥ですが、このライトの下は暑くて、今私はまるで砂漠にいるようです」とジョークを言ってまた笑わせた。そのタッチの正確さ、音楽の強靭さ、曲の性格を弾き分ける懐の深さ。いずれも素晴らしい。この手の曲は聴いているうちに眠くなるものだが、全く眠気を起こすことなく、食い入るように耳を澄ませることとなった。考えてみれば、演奏時間の制限のために集中力の持続が可能になり、加えて演奏者の解説が聞けるというこのような機会は、この音楽祭であるからこそ実現した、非常にユニークなものである。この日、あれこれのコンサートのためにこの場所に集った多くの聴衆と同様、私も熱狂の日を楽しむことができた。エマールの「鳥のカタログ」シリーズはあと 2回。記事にするネタがあるかどうか分からないが (笑)、大いに楽しみたい。

# by yokohama7474 | 2016-05-04 00:25 | 音楽 (Live)

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既にこのブログでも何度か記事にしている通り、東京日比谷にある出光美術館は、特に日本美術の宝庫として非常に貴重な存在なのである。東京にはほかにも根津美術館や五島美術館や、はたまた静嘉堂文庫や、現在修復中の大倉集古館など、素晴らしい日本美術を蔵する私立の美術館がいろいろあるが、そのコレクションに一本筋が通った出光美術館の存在は、東京の文化生活に欠かせないものだ。その出光美術館が今年開館 50周年を迎えるという。もともと出光興産の創始者である出光佐三 (1885 - 1981、なんという長命!!) のコレクションなのである。
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今回、美術館の開館 50周年を記念して、約 3ヶ月の間に 3度に分けて大規模な展覧会が開かれている。その名も「美の祝典」。この美術館の所蔵する名品が勢ぞろいする展覧会であるらしい。その中でも目玉はこれだ。
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おぉ、この紅蓮の炎はなんだ。そう、国宝、伴大納言絵詞 (ばんだいなごんえことば) のうち最初の巻に出てくる、都の応天門の火災である。この絵巻物は 3巻から成っていて、この展覧会が約 1ヶ月毎に内容が変わるごとに 1巻ずつ展示されるという。そもそも絵巻物とは、右から左に展開する長い巻物に様々な物語が書かれたもので、日本独自の美術表現であるのだ。そう、日本独自という点に注目しよう。もともと大陸・半島からの文化を受け入れた我が国は、平安時代以降、独自の文化を発展させたのであるが、この絵巻物という形式はまさにその典型。今に至る日本人のアニメ好きの原点はここにあるとしか思えない。私は日本に残る数々の名品絵巻物に大変興味があり、中央公論社の「日本の絵巻」シリーズ全 20巻を所持しているが、もちろんその中にはこの伴大納言絵詞も含まれている。このシリーズは時々取り出してツラツラと眺めているのであるが、様々な名作絵巻をカラーで掲載しているものの、何か満たされないものが残る。そう、この本は縦長で、本物の絵巻物とはやはり違うのである。
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そんなわけで今回 10年ぶりに公開される「伴大納言絵詞」を見たくて会場に赴いたのであるが、実は私は同じ展覧会に二度足を運んでいる。というのも、この絵巻を見たい一心で、最初に美術館を訪ねたときに、現地で気づいたことには、財布を自宅に忘れたのである!! 会社の PC を持ち歩き、重いなぁと思いながら、何のことはない、軽い財布 (何せ中身が少ないので 笑) を忘れてくるとは誠に情けない。そんなわけで、その時はむかついてむかついて、絵を見るどころの騒ぎではない。家人と離れて美術館の窓から皇居を見て、なんとか自分への怒りを鎮めようとしたのである。これは出光美術館から皇居の桜田門を臨む景色。いらだっていた時には気づかなかったが、なかなか威厳に満ちた光景ではないか。なんだか絵葉書のような風景。
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そして出直してようやく鑑賞できたのは、伴大納言絵詞全 3巻のうち、今回展示されていた第 1巻。なぜかこの巻だけ絵詞がついていないらしいが、「宇治拾遺物語」の中に同じストーリーが含まれているため、内容が分かるようだ。伴大納言とは、伴善男 (とものよしお) のことを指し、彼が犯人とされる応天門放火事件を題材としている。絵巻物は、馬に乗る武士たちやさんざめく庶民たちの向かう先にある、炎上する応天門から始まる。この押すな押すなの大混雑の描写の活き活きとしていること。これを見ると、日本人は元来、戯画好きであることが実感される。近世以降に発達したわび・さびの世界とは全く異なる生命力がここにはある。
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今回の展覧会では、これ以外にも四季を描いた日本古来の絵画があれこれ展示されていて、大変興味深いものであった。たとえばこれは、重要文化財の「扇面法華経冊子断簡」。日本美術ファンには既におなじみであろう、大阪、四天王寺に所蔵されている国宝の扇面法華経冊子の一部なのだ。
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それから、仏画もあれこれ展示されている。例えばこの鎌倉時代の「阿弥陀来迎図」。通常なら合掌しているはずの勢至菩薩 (阿弥陀如来の左下) は、「さぁっ、どうぞー」と言わんばかりに腕を差し伸べている。阿弥陀如来の姿も躍動感に満ちていて、いつの時代にも、型から外れた芸術家がいたことに思い当たる。
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「伴大納言絵詞」は、この展覧会の残り 2回でそれぞれ 1巻ずつ公開されるらしいので、なんとかすべて見たいと思っている。なんでも、国宝の 4大絵巻とは、この「伴大納言絵詞」のほかに、「源氏物語絵巻」「鳥獣戯画」「信貴山 (しぎさん) 縁起」を指す。うーん、「源氏物語絵巻」は、徳川美術館と五島美術館のそれぞれで見たことがある。「鳥獣戯画」は、一昨年修復後の展覧会を京都で見た。そうすると、あと残るは「信貴山縁起」だけだということになる。あー、見たいなぁ、あの摩訶不思議な絵巻物を。私の思いは募る一方なのである。




# by yokohama7474 | 2016-04-30 23:47 | 美術・旅行