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この映画はどうやら英国王室の話であることは明らかであり、レイチェル・ワイズとかエマ・ストーンが出ているというので、ちょっと見たいなと思ったのだが、題名が「女王陛下のお気に入り」? うーん、これはコスプレ・コメディだろうか。どの女王の話か知らんが、私も決して暇な人間ではないし、ま、他愛ないほのぼのコメディならパスしようかな、と思っていた。ところが、一応どんな映画だろう、と思って調べてみると、ひとつ分かったのは、これはアン女王に関する話。アン女王と言えば、あのロンドンのセントポール大聖堂の前に彫像が立っている (つまりそれは確か、この大聖堂が今のかたちで建設された時の王であったからと記憶するが)、あの女王である。もちろん、エリザベス 1世やヴィクトリア女王のようなよく知られた女王ではないが、一応知っている名前である。単なる架空の王朝コメディではないということだ。そして、おっ、監督のなんとかティモスって聞いたことがあるぞ。そう、あの怪作「聖なる鹿殺し キリング・オブ・セイクリッド・ディア」の監督、ヨルゴス・ランティモスではないか。そうなれば話は別。ちょっと見に行ってやるか、と思って劇場に足を運んだのである。監督のランティモスは 1973年生まれのギリシャ人。
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そして、私は今申し上げたい。映画という表現手段の持つ強烈な力を感じたければ、是非この作品を見るべきだ。但し、出演している女優たちが、昔の「ハムナプトラ」シリーズのレイチェル・ワイズだとか、ましてや「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーンだと思ってはいけない。この映画における彼女たちは、世代は異なれども、ともに映画という芸術分野に深く貢献する、そしてそれだけの自覚と決意を持った表現者として、スクリーンの向こうにいる。残念ながら日本ではこんな映画、到底期待できないと思う。

ストーリーは単純と言えば単純。主人公のアン女王 (1665 - 1714) は、ステュアート朝最後の王であり、その在位中の 1707年にイングランドとスコットランドが合併して、グレートブリテン王国が成立した (現在の連合王国となったのは、1801年にさらにアイルランドを併合してから)。物語は、そのアン女王と、彼女の幼なじみで、事実上王宮を牛耳る存在であるレディ・サラ、そして、サラの従妹で、父親のギャンブル好きのおかげで貴族社会から転落し、召使として王宮にやってくるアビゲイル、この 3人が織り成す、激しいドラマである。サラ役のレイチェル・ワイズがインタビューで面白いことを語っている。3人の女性を主役にする映画は珍しいし、その 3人の関係も普通ではない点に興味を惹かれた。そして、「3人が競い合い、愛し合い、妬み合い、敵対し合うところがおもしろい」とのこと。そうそう、まさにこの 3人の関係、なんだかよく分からない複雑な様相を呈するのである。紋切り型の権力争いや、表面上の媚びへつらいとか、そういった次元の話ではない。何かもっと人間の根源的な弱さとか醜さを、仮借なく描いているのである。その一方で、今度はアビゲイル役のエマ・ストーンのインタビューから引用すると、「脚本が本当にすばらしかった! 複雑な 3人の女性キャラクターがとてもよく描かれていたの。コメディだし、読みながらも笑ったわ」とのこと。いやいや、私は上で、これはコメディではないと書いた。それをコメディだと言いきってしまうあたりに、この女優の侮れない個性が見て取れる。さぁこの 2人、どちらが勝つのだろうか。
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そう、普通の意味ではこの映画は断じてコメディではなく、人間の汚い面を赤裸々に描いた、あまり愉快な映画ではないのだが、その細部を思い出して行くと、今度は人間のしぶとさにも思い当たるわけで、そう思った瞬間、いろんなことが可笑しく感じられるから面白い。ネタバレせずに説明するのは難しいが、一国 (未だ世界に冠たる大英帝国ではないにせよ) の君主がこれだけ人間的な弱みを抱えていて、いとも簡単に操られるかと思うと、意外としっかりした面があって、突然自らの意思で命令を発し始める。あるいは王宮を牛耳る存在である女性が、年少の従妹の策略にかかってひどい目に遭うことは、小気味よくもある。さらにその年少の従妹は、うまい具合に男を利用して成り上がるが、男のあしらいはなんともぞんざいで、結婚初夜も例外ではない。それらは結構笑える内容になっているのである。物語はそのような様々なピースによって成り立っているが、その積み重ねから何度か笑いを感じるうち、気がつくと背筋が凍るような人間の真実に直面する。そんな作りになっている。これは家族みんなで見に行くようなタイプの映画ではないが、大人であれば、ストーリーを追うだけで充分楽しめると思うのである。

さて、肝心の主役についてまだ何も語っていなかった。アン女王を演じるのは、オリヴィア・コールマンという女優。本作でアカデミー主演女優賞を受賞した。私にとってはなじみのない顔であるが、英国では実績のある女優のようである。実在のアン女王は病気がちで、また大変な肥満であったというが、17回妊娠して、ひとりの子供も育たなかったという個人的悲劇にも見舞われた人でもあったという。自分勝手で淋しがりで、でもどこか憎めない女王役を、見事に演じている。上で触れた、セントポール大聖堂の前に立つアン女王の彫像の写真もここに掲げておこう。
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ヨルゴス・ランティモスの演出は、「聖なる鹿殺し」に続いて、ここでも大変に冴えている。役者たちから恐ろしいような表現を引き出したのも、彼の手腕であろう。実は今回共演しているオリヴィア・コールマンとレイチェル・ワイズは既にこのランティモスの「ロブスター」という映画に出演した実績がある。3人の女優の中で唯一米国人であるエマ・ストーンも、本作への出演を決意したのは、まずはこの監督の作品であることが理由だったという。今後の作品から目が離せない監督である。彼の演出の一例として、本作の宮廷内のシーンでは魚眼レンズを多用していたことが挙げられるが、それなどは、普通なら段々辟易としてきてもおかしくない、単調さに堕する危険がある方法だろう。だが、画面の情報量もストーリーの情報量も多いこの映画では、非常に効果的であったと私は思う。
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この作品、アン女王はもちろんのこと、サラもアビゲイルも、実在の人物であるという。もちろんこのストーリー自体はフィクションであるが、史実からヒントを得た作品ということになる。ところでこのサラ、旦那の名前はジョン・チャーチルという。そう、もちろんあのウィンストン・チャーチルの祖先である。本作の最初の方で、アンがサラに対して、ジョンの軍功を称えて宮殿をプレゼントすると言って模型を見せるシーンがあるが、もちろんその宮殿は、(このブログでも映画のロケ地として何度か言及した) 世界遺産、ブレナム宮殿で、ウィンストン・チャーチルの生地である。言ってみればこの映画、20世紀英国の英雄チャーチルの祖先を、かなりひどく描いているとも言えるわけで、その意味でも英国風仮借なさを感じるわけである。もちろんその仮借なさは、過去に実在した女王の描き方にもあてはまるわけであるが (笑)。

因みにこの映画の王宮のシーンは明らかにセットではなくロケだと思ったら、ハットフィールド・ハウスで撮影したとのこと。ロバート・セシル (初代ソールズベリ伯) の館であったが、あのエリザベス 1世が幼少の頃を過ごした場所として有名である。私もその場所を訪れたことがあって、そのあたりの展示を沢山目にしたものだ。もちろん英国にはこの手の屋敷 (今でもソールズベリ侯爵 = 保守党の政治家でもある = の自邸だが) は多く残っているが、やはりこのような映画のロケには最適である。
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最後に音楽について。この映画では、既成のクラシック音楽が数ヶ所で印象的に使われていて、その中のバッハやパーセルというバロック音楽は、時代の雰囲気を盛り上げるという目的が明確であるが、それ以外に、劇中の登場人物の心理を深く反映するような音楽がある。ひとつは、シューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調作品44の第 2楽章。もうひとつは、シューベルトのピアノ・ソナタ第 21番変ロ長調D.960の、やはり第 2楽章だ。この 2曲が使われている箇所 (前者は確か 2回使用されていたと記憶する) では、何か衝撃的なことが起こるのだが、音楽はひたすら淋しい。「聖なる鹿殺し」に続き、ランティモス監督の音楽のセンスには感心した。

このような次第であるので、映画を選択するときには、邦題で内容に対して先入観を持たず、作り手についての情報を充分得てからにしたいと、再認識した。あ、あと、たまたまこの作品の Wiki を見てみたが、そこには「歴史コメディ映画」とある。いやいや、とんでもない。あなたがエマ・ストーンでもない限り、この映画をコメディなどと呼んではいけない!!

# by yokohama7474 | 2019-03-28 21:33 | 映画

エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団 (チェロ : ガブリエル・リプキン) 2019年 3月26日 東京文化会館_e0345320_08313839.jpg
東京都交響楽団 (通称「都響」) の桂冠指揮者、イスラエル生まれのエリアフ・インバルは、日本でも長くおなじみの指揮者である。1936年生まれであるから今年実に 83歳なのであるが、その活動は未だ非常に精力的である。最近も、今年の 8月から台湾の台北市立交響楽団の首席指揮者に就任すると発表された。日本でポストを持っているのだから、ちょっと台湾まで足を延ばせばよいという考えもあるかもしれないが (笑)、それにしても、ヨーロッパの指揮者が日本と台湾でポストを持つということの物理的なハードルも大変なものだと思うのだが、若い指揮者ならいざしらず、それを 83歳にしてやってしまうこの人は、やはり何か怪物めいた活力の持ち主であると思うのである。ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチなどの大作交響曲をレパートリーの中心に据えているのも相変わらずであり、過去に同じ曲の演奏を聴いていても、この人が指揮するとなると、やはりまた聴きたくなってしまう。独特の魔力を持った指揮者である。今回インバルが東京で指揮するプログラムは 3種類。そのうち最も注目が高かったであろうブルックナー 8番 (しかも、これまで彼が採り上げてきた第 1稿 1887年版ではなく、第 2稿 1890年版による演奏) を聴けなかった私は、そのことを大変残念には思っているが、ここは気を取り直して、それ以外のプログラムを楽しみにしよう。そして私が出掛けたこの東京文化会館での定期公演のプログラムは、以下の通り。
 ブラームス : 悲劇的序曲作品81
 ブロッホ : ヘブライ狂詩曲「シェロモ」(チェロ : ガブリエル・リプキン)
 ショスタコーヴィチ : 交響曲第 5番ニ短調作品47

これは全体的に悲劇的トーンの漂う、引き締まったプログラム。しかも、作曲者の出身国はドイツ、スイス、ロシアと別々ながら、序曲・協奏曲・交響曲という、伝統的なコンサートスタイルになっている。実は今回、インバルと都響は、東京での公演に加えて、福岡と名古屋でも公演を行っていて、その 2都市では、このプログラムの真ん中の曲を、よりポピュラーなチャイコフスキーの「ロココの主題による変奏曲」に入れ替えられていた。なので、「シェロモ」はこの東京での定期においてのみ演奏されたことになる。
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冒頭の「悲劇的序曲」はいかにも都響らしいズシリとした音を、インバルの、決して器用ではないがはったりもない指揮が、うまくかき混ぜる (表現としては適当でないかもしれないが、私のイメージはそんな感じ)。名曲を聴いて、あぁいい曲だなぁと思うことは、音楽の醍醐味であると思うのだが、まさにそんな印象のブラームスであった。

2曲目の「シェロモ」は、スイス出身のユダヤ人作曲家、エルネスト・ブロッホ (1880 - 1959) の代表作である。この作曲家はジュネーヴに生まれ、ブリュッセルやフランクフルトで教育を受けたが、36歳で米国に渡り、そこで生涯を終えた人。作品としてはこの「シェロモ」以外はほとんど知られていないが、ユダヤ色豊かな作品群を残した人で、この「シェロモ」も例外ではない。そもそもこの題名はソロモン王のヘブライ語読みであり、ここでは独奏チェロがそのソロモン王の呟きを奏する。そこで聴かれる音響は、まさに古代イスラエル王国の栄華と、ソロモン王の孤独を思わせる大変にドラマティックなもので、文句なしの名曲と言ってもよいだろう。私の場合は、若い頃にロストロポーヴィチとバーンスタインの録音で親しんだが、それよりも前に、ストコスフキーがシンフォニー・オヴ・ジ・エアを指揮したレコード (チェロはジョージ・ナイクルグという人) を聴いていた。だが実はこのストコフスキーは、その録音よりも前、1940年にフィラデルフィア管を指揮してこの「シェロモ」を世界初録音した人で、そのときのチェロは、伝説的チェリスト、フォイアマンであった。聴いてみたいなぁ・・・。とまぁ、昔の録音の話はさておいて、今回の演奏に戻ろう。チェロ独奏は 1977年イスラエル生まれのガブリエル・リプキン。15歳でズービン・メータ指揮イスラエル・フィルと共演し、世界に活躍の場を広げたが、2000年から 3年間、小村に居を移し、自身の精神を高めるためのサヴァティカル休暇に入ったという。活動再開後は、通常の演奏活動に加え、現代作曲家との共同作業など、チェロの新たな可能性を追求しているようだ。その外見も、どこかストイックなイメージの人である。
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この「シェロモ」というユダヤ的作品を、ユダヤ人でないと共感を持って演奏できないというものでもないと思うが、今回のように、指揮者、ソリストともにユダヤ人の演奏を聴くと、やはり何か特別なものを感じてしまう。このリプキンのチェロの響きは非常に神秘的かつ思索的であり、弱音から大きなうねりまで、全く教科書的ではない自由度を持って弾きこなすので、そこから立ち昇る音楽の実在感に、心を打たれるのである。そのチェロに触発されたのか、情熱的な主題で盛り上がる箇所での都響の響きは、実に劇的で、鳥肌立つほどだ。眼前に古代ユダヤ神殿が立ち現れるかのような思いに囚われる。これを機会に、もっとブロッホの音楽を聴いてみたいと思わせるような演奏であった。これは、英国のエドワード・ジョン・ポインターというラファエル前派の画家による、ソロモン王に謁見するシバの女王。
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メインのショスタコーヴィチ 5番は、ちょうど前日にウルバンスキ指揮東響の演奏で聴いた 4番と異なり、この作曲家の代表作にして、誰もが認める 20世紀の交響曲の一大傑作である。もともとインバルという、音楽に内在するある種の狂気を解き放つような指揮をする人には、このショスタコーヴィチの屈折した音楽はよく合っていると思うのであるが、別に何か変わったことや特別気の利いたことをするわけでもないのに、聴くたびにその音楽の説得力に打たれてしまう。第 1楽章と第 2楽章の間では指揮棒を下ろすことなく続けて演奏し、第 3楽章と第 4楽章はもちろんアタッカであるから、全曲は大きく 2部に分かれたように演奏された。悲劇の予感をはらんで徐々に盛り上がる第 1楽章後半の悠揚迫らざるテンポ、第 2楽章冒頭のド迫力に代表される、ギスギスした音の耳障りなこと、第 3楽章の静謐な透明感の表出、そして第 4楽章の「強制された歓喜」(これもヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」にある、衝撃的なこの曲の解説だ) の白日夢のような不気味な熱狂。かなり以前に聴いたこのコンビでのこの曲の演奏も、確かこんな印象ではなかったか。インバルには、中途半端な円熟よりも、ひたすら音楽の力を解き放つことを期待したいし、今回の演奏はその期待に見事に応えてくれたものだったと思う。恐るべき 83歳である。

4月から始まる都響の来シーズンの予定 (小冊子の見開き 2ページにすべて収まってしまう) を眺めていると、音楽監督大野和士、首席客演指揮者アラン・ギルバート、終身名誉指揮者小泉和裕に加えて、このインバルの名前もある。次回来日は 11月で、またショスタコーヴィチの 11番、12番や、チャイコフスキーの管弦楽曲などが含まれている。加えて、マルク・ミンコフスキの再登場と、フランソワ=クサヴィエ・ロトの登場があり、これらは今から興奮を禁じ得ない。東京の音楽界はいよいよ熾烈な競争に入って行くわけである。

# by yokohama7474 | 2019-03-27 22:21 | 音楽 (Live)

クシシュトフ・ウルバンスキ指揮 東京交響楽団 (ヴァイオリン : ヴェロニカ・エーベルレ) 2019年 3月25日 サントリーホール_e0345320_08420687.jpg
クシシュトフ・ウルバンスキは 1982年生まれのポーランドの若手指揮者。彼が、以前首席客演指揮者を務めた東京交響楽団 (通称「東響」) の指揮台に戻ってくる。私は過去に何度か彼の指揮を経験しているが、なかなかに硬派な指揮者であって、強烈な表現力を伴う能力の高さは疑いがないゆえ、このコンサートを楽しみにしていた。彼の過去のコンサートで忘れられないのは、ポーランドの作曲家キラールの「クシェサニ」という交響詩。未知の作曲家の未知の曲を、それはもう快刀乱麻の遠慮のない (?) 指揮ぶりで、聴衆を圧倒した。そのあとには庄司紗矢香のソロでドヴォルザークのコンチェルトが演奏されたのだが、ドヴォルザークの地味なコンチェルトが吹っ飛んでしまうような、そんな強烈なキラールの演奏であった。それをきっかけとして私は、映画音楽 (例えばコッポラ監督の「ドラキュラ」など) を含むキラールの CD を何枚か購入したものだった。あれは 2014年 10月のことであったから、既に 4年半も経っているわけで、その間にウルバンスキ自身の活躍の場も広がっている。2017年には首席客演指揮者を務める NDR エルプフィルとともに来日したが、残念ながらそれは聴けなかったので、今回は特に楽しみだ。
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彼は一見端正でスマートな佇まいを持ちながらも、上の写真でもその片鱗が見えているが、音楽の根源的な力を引き出す底知れぬヴァイタリティこそが持ち味である。現在のポストは、上記の NDR エルプフィルの首席客演指揮者のほか、インディアナポリス交響楽団の音楽監督であるが、既にベルリン・フィル、シュターツカペレ・ドレスデン、ロンドン響等と共演していて、今シーズンはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管とパリ管にデビューするというから、まさに世界の一線で活躍の場を広げているわけである。そのうちメジャーオケのシェフの地位に就くに違いないと私は思う。そんな彼の指揮するプログラム、これがまた今回の大きな期待を抱かせるもの。
 モーツァルト : ヴァイオリン協奏曲第 5番イ長調K.219「トルコ風」(ヴァイオリン : ヴェロニカ・エーベルレ)
 ショスタコーヴィチ : 交響曲第 4番ハ短調作品43

ショスタコーヴィチの問題作、交響曲第 4番は、演奏に 1時間を要する大作で、彼の 15曲のシンフォニーの中でも、最も狂乱的な強音が暴れまくる曲。自宅で CD を聴くときには、近所迷惑にならぬよう、ヴォリュームには気を付ける必要があるので (笑)、コンサートホールでオケが渾身の力で演奏するのを実体験することこそ、この曲を楽しむ最上の方法である。過去の経験から、この曲はウルバンスキの持ち味にぴったりであると思うので、これはやはり、この春の東京における音楽イヴェントとして大いなる注目に値する演奏会なのである。

だが、前半に置かれたのは、そのような大シンフォニーとは対照的な古典、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲だ。ここでソロを弾いたのは、1988年生まれのドイツの女流、ヴェロニカ・エーベルレ。私が彼女を聴くのは多分これが初めてだが、16歳の頃、2006年のザルツブルク復活祭音楽祭で、サイモン・ラトル / ベルリン・フィルとベートーヴェンのコンチェルトを弾いたという輝かしい経歴を持つ。その後もロンドン響やニューヨーク・フィル、バンベルク響等と共演し、日本でも N 響とは既に 2度共演しているし、リサイタルも何度も開いているようだ。
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今回彼女の演奏を聴いて、その美音には感心したが、正直なところ、もう少し自分の色があってもいいような気がした。モーツァルトであるから、オケとの自然な呼吸が大事であり、即興性すら欲しいところ。その点今回の演奏は、上手く歌ってはいたものの、聴いていて楽しくて仕方がないというところには至らなかったように思う。冒頭部分は弱音を非常に抑えて始まったこともあって、主部では対照的に疾走する感覚が心地よかったが、勢い余ってということだろうか、フレージングの着地がほんの僅か乱れたように聴こえた箇所が何度かあり、細かい点ではあるものの、絶美の音楽であるがゆえに、少し気になった。その点、アンコールで弾いたプロコフィエフの無伴奏ソナタの第 2楽章の一部は、エーベルレの技巧の冴えから、独特の孤独感のようなものも響いてきて、素晴らしいと思った。このエーベルレ、9月には大野和士 / 東京都響とともに、ベルクのコンチェルトを演奏するので、そちらがまた楽しみである。尚このモーツァルトの演奏において、オケはコントラバス 2本の極小編成 (より詳細には、第 1ヴァイオリン 8 : 第 2ヴァイオリン 6 : ヴィオラ 4 : チェロ 3 : コントラバス 2) であり、ウルバンスキも、長い指揮棒を持ちながらも指揮台を使わず、床にそのまま立っての指揮であった。ここでは牙を隠した (?) 模範的指揮ぶり。

さて、ショスタコーヴィチ 4番である。このブログでは、2017年 9月にヤツェク・カスプシク指揮読売日本響による演奏を採り上げたことがある。奇しくもそのときも今回も、ポーランドの指揮者による演奏なのであるが、そのカスプシクの演奏会も大変よかったが、今回のウルバンスキもそれにひけを取らないばかりか、その表現力の強烈さではさらに上を行ったかもしれない、大変な熱演であった。上記の通り、そもそもこの曲、いびつな 3楽章からなる 1時間ほどのシンフォニーだが、とりとめない音響が随所で炸裂するようなタイプの曲であり、ショスタコーヴィチは当時ソ連当局から睨まれていたために、1936年に完成したこの曲の初演は、スターリンの死後である 1961年まで実現しなかったという経緯がある。実際に今聴いても、決してなじみやすい曲ではなく、一般的にあまり人気がないのも理解できようというものだ。だが今回のウルバンスキと東響の演奏では、特に木管の各楽器がその持ち場持ち場で、曲想に合わせた多彩な音をクリアに発していて、聴いていて退屈するということには全くならなかった。ウルバンスキの指揮ぶりは今回もかなりハードなもので、曲を分かりやすく聴かせるというよりも、弱点まですべてそのまま再現するという態度であったように思う。そのフォルテシモの骨太で強烈なことは言うまでもないが、それだけではなく、多彩な音楽的情景に隅々まで光を当てるような印象であった。終結部で弦が執拗にリズムを刻みながらチェレスタが霧の中に消えて行くような場面では、そら恐ろしいような静寂がホールを満たした。ウルバンスキ、実に恐るべき若手指揮者である。東響との相性もよいと思うし、音楽監督ジョナサン・ノットとは異なる個性の持ち主であるので、彼との共演は、オケにとっても大きな刺激になるものと思う。今後も是非招聘を続けて欲しいものだ。

ところで、ショスタコーヴィチという作曲家、世界的に演奏頻度は増していることは確かではあっても、政治に翻弄されたその人生には、やはり見えにくい部分が依然として多々あり、その評価は今後も変わりうるだろう。今回の演奏会のプログラム冊子にはこの 4番のことを、ショスタコーヴィチなりにソヴィエトにふさわしいシンフォニーを真摯に模索した結果であると書かれていて、興味深い。つまり、マーラー的な音楽言語の多層性に加え、民衆的な音楽イディオムを取り入れることで、同時代的な社会性や美学的パトスを内包した「民主的シンフォニズム」が実現するという発想である由。この曲は、当局の非難を恐れてお蔵入りになった (リハーサルまで行われたが、当局の圧力もあって演奏会はキャンセルされた) という理解が一般的だが、実は音楽界はこの曲に期待していたし、作曲者にも期するところ大であったというわけである。これを読んで、ふと思い立って、随分以前に読んだ「ショスタコーヴィチの証言」(ソロモン・ヴォルコフ編) に何かヒントはないかと思って、久しぶりに書棚から引っ張り出してきた。この有名な書物の真贋については未だ曖昧な点が多いが、読んでいて面白いということでは無類である。私が持っているのはこの中公文庫 (1986年発行)。
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この本の第 4章「非難と呪詛と恐怖のなかで」の中に、第 4交響曲への言及がある。当局の非難を受け、自殺まで考えるほど追い込まれていた彼はしかし、ゾーシチェンコという、友人のユーモア作家の考えに救われ、「以前よりももっと強くなり、自分の力をもっと確信できる人間として危機をくぐり抜けることができた。敵対する勢力が、わたしにはもうそれほど全能とは思われなくなり、友人や知人たちの恥ずべき裏切行為も、以前ほど大きな悲しみを与えなくなった」。そして、「このような考えのいくつかは、もし望むなら、私の第四交響曲のなかに見いだせよう。正確にいえば、最後の部分で、このようなものがすべてはっきり表現されている」とある。そして、初演が遅れたことについて、「およそ、音楽作品を地面に埋め、時のくるのを待つという意見にわたしはあまり賛成できない。まったく、交響曲というのは中国の卵ではないのだから」と、ピータンを例に出したユーモアのある表現を使って、初演が作曲から 25年も遅れてしまったことへの不快感を表明している (笑)。うーん、このトーンからは確かに、同時代性を反映した交響曲を作曲したという意思が見える。ソ連の権力者たちが喜ぶような「社会主義的リアリズム」の作品とはとても思えないこの 4番だが、そもそもそのナンチャラリアリズムの定義自体が曖昧であったので、ショスタコーヴィチなりの表現を模索したということは言えるのだろう。ところで、そのショスタコーヴィチを勇気づけたというミハイル・ゾーシチェンコ (1895 - 1958) のユーモア小説は、日本でも翻訳が出ているようだ。今度、この 4番を BGM に、ちょっと読んでみるかな。霧の彼方に消えて行く神秘的エンディングは、敵対勢力を恐れない境地を表していると、感じることができるだろうか・・・。
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# by yokohama7474 | 2019-03-26 23:09 | 音楽 (Live)

小澤征爾音楽塾 ビゼー : 歌劇「カルメン」(指揮 : クリスティアン・アルミンク / 演出 : デヴィッド・ニース) 2019年 3月24日 東京文化会館_e0345320_21151502.jpg
今年も小澤征爾音楽塾の季節がやってきた。ロームをスポンサーとして、2000年から主としてオペラを採り上げてきたこのプロジェクト、今回が実に 17回目。今回の演目はビゼーの名作「カルメン」であるが、これはほんの 2年前、2017年に演奏されたものと同じである。演出も同じなら、主要 3役 (カルメン、ドン・ホセ、ミカエラ) も同じ歌手たちなのであるが、それでもチケットが完売になるのは、もちろん小澤征爾が心血を注ぐプロジェクトであることを聴衆もよく知っており、また自らも一部を指揮すると発表されていたからだ。一方、作り手の側から見ても、このプロジェクトの目的自体が、毎回毎回オーディションで選ばれる若い演奏家たち (オーケストラも合唱団も) が、プロの歌手たちとともにオペラを身をもって体験するということであれば、演目が 2年前と同じであることは何ら問題ではないばかりか、教える側からすればむしろ、経験の蓄積が生きる分、好都合かもしれない。そう考えると、オペラ上演がそもそも日常的に存在しなかったという日本の音楽環境を少しでも改善し、若い人たちに本物のオペラ体験を積ませることで、日本の西洋音楽レヴェルを上げようという小澤の意気込みを、改めて実感するのである。そのキャリアにおいて、西洋音楽界のまさに頂点に立った人であるからこそ、身に沁みてその必要性を感じているのであろう。今回のオーディションは日本のみならず、中国、台湾、韓国でも行われた由。つまりこれは今や、東アジア全体の音楽文化向上を目指す試みになっているのである。これがプログラム冊子に載っている、今回のリハーサル風景。
小澤征爾音楽塾 ビゼー : 歌劇「カルメン」(指揮 : クリスティアン・アルミンク / 演出 : デヴィッド・ニース) 2019年 3月24日 東京文化会館_e0345320_21395094.jpg
だが、事前に発表があった通り、今回の東京公演では、小澤の指揮を聴くことは残念ながらできなかった。今回は京都で 2回、そして横須賀、東京という、合計 4公演であるが、最初の京都の 2公演では指揮したものの、その後小澤は気管支炎を患い、まず横須賀公演をキャンセル。その後、今回の東京での千秋楽では指揮するために体調回復に努めたが、最終的には、大事を取って休養となったもの。会場には、主催者による説明と、小澤本人によるコメントが掲示されていた。
小澤征爾音楽塾 ビゼー : 歌劇「カルメン」(指揮 : クリスティアン・アルミンク / 演出 : デヴィッド・ニース) 2019年 3月24日 東京文化会館_e0345320_21491295.jpg
実は京都での初日のあと、NHK のニュースでこの公演を採り上げていたのであるが、そこでは小澤がリハーサルにおいて生徒たちを厳しく指導し、オペラを学ぶべきはまさに今であるということを力説し、"Not Tomorrow!! Now!!" と檄を飛ばすシーンが見られ、そして実際に京都での初日に第 1幕の前奏曲を指揮する様子が映っていた (なぜかピットの中で奏者たちは立って演奏していた)。そのニュースでははっきりと、「小澤さんが指揮するのは全 4幕のうち 1幕だけ」と言っていた。えっ、「カルメン」の第 1幕と言えば、多少セリフだけの箇所もあるが、50分ほどもかかる長さである。そんなに連続で指揮する体力が、今の小澤にあるのだろうか・・・。あるなら、こんな嬉しいことはないが・・・。と思っていたのだが、音楽塾のホームページにも、今回の会場での掲示でも、もともと「第 1幕の前奏曲」 (掲示には「序曲」とあったが、これは分かりやすさを優先した表記だろう) だけの指揮が予定されていたとある。前奏曲は、ほんの数分の曲である。第 1幕全体とはえらい違いで、つまり、「1幕のごく一部だけ」とせず「1幕だけ」としたNHK の報道は誤報。どうにも困ったものである。

ともあれ、そもそも数年前からオペラの全曲を指揮する体力のない小澤のことであるから、ほかの指揮者と振り分けるのが、このところのこの音楽塾でも通例になっている。とはいえ今回、もともとほんの数分の前奏曲しか振る予定がなかったと知って、淋しい気持ちを抑えることはできない (なので、第 1幕全部を振るとしか解釈できなかった NHK ニュースの表現に、ぬか喜びしたのだ)。いやしかし、この公演の芸術監督として、彼は 3週間みっちりリハーサルに参加したということだし、上に書いた通りのこのプロジェクトの目的を考えれば、その公演の出来を楽しむのが、我々聴衆がすべきことであろう。上演前にわざわざプロデューサーが登場して、お詫びの挨拶をしたが、聴衆の拍手は温かいものであった。

そんなわけで、今回の上演で指揮をしたのは、クリスティアン・アルミンク。オーストリア生まれの 48歳である。日本では、新日本フィルの前音楽監督としておなじみだ。
小澤征爾音楽塾 ビゼー : 歌劇「カルメン」(指揮 : クリスティアン・アルミンク / 演出 : デヴィッド・ニース) 2019年 3月24日 東京文化会館_e0345320_22101265.jpg
彼は小澤の弟子筋でもあり、このような機会に指揮を受け持つのも納得性がある。私自身は、過去に経験した彼の演奏がすべて素晴らしかったとは必ずしも思っていないものの、もちろんしっかりした手腕を持つ指揮者であり、コンサート、オペラの両面で経験を積み重ねているので、きっと若者たちをうまく率いてくれるだろうという期待があった。そして始まった前奏曲は、ここでもやはり奏者たち (弦楽器だけ? つまりはヴァイオリンとヴィオラということだが) は起立して演奏していたが、これは小澤の指示によるものであったのだろうか。いわゆるユース・オーケストラというものは概して、時に技術が第一級のプロには及ばずとも、その熱意や集中力で素晴らしい演奏を成し遂げる場合があり、そんなときの感動は独特のものがある。今回の演奏でも、確かに最初から最後まで完璧だったとは思わないが、アルミンクの個性もあるのだろう、前半では抒情的な部分が大変美しいと思っていたら、終幕の修羅場では、それはもう大変に劇的な音が容赦なく鳴っていた。オペラとは、舞台にいる生身の人間たちが歌ったり演技したりするところに、オーケストラが伴奏する芸術。いや、ある場合はオーケストラが先導することもある。呼吸を合わせ、他者の発する音を聴き、喜怒哀楽を表現するのは、音楽の醍醐味だ。聴いている方がそんなことを思うのだから、実際に演奏しているオケの若者たちにとってみれば、音とドラマがどんどん進んで行くときに、その重要なパートを自分たちが担うのだということを知る喜びは、また格別なものであろう。アルミンクの指揮ぶりは比較的クールだが、要所要所を抑えていて、若者たちのよきリーダーとして、素晴らしい役割を果たしていたと思う。

歌手陣では、やはりカルメンのサンドラ・ピクス・エディが、その舞台映えする容姿もあり、見事。
小澤征爾音楽塾 ビゼー : 歌劇「カルメン」(指揮 : クリスティアン・アルミンク / 演出 : デヴィッド・ニース) 2019年 3月24日 東京文化会館_e0345320_22352656.jpg
ドン・ホセのチャド・シェルトンも、圧倒的ではないにせよ、この役の持ち味はうまく出していた。エスカミーリョのエドワード・パークスは、今回初登場だが、「闘牛士の歌」(声域が低いから難しいのだが) では少し声量不足かと思われたが、総じて立派な出来。ミカエラのケイトリン・リンチも、ただ可愛らしいだけではない強い表現もあり、本作におけるこの役の存在意義を示した。これらの歌手の経歴を見ていると、ほとんどが米国で活躍していることが多い。未だ若く、これからヨーロッパにも活躍の場を広げて行くのだろうか。そうすると彼らの履歴書には今後、「小澤征爾音楽塾で歌う」という項目が入り、それが経歴上の勲章になるのではないか。オペラの伝統のない日本でのプロジェクトが、若手歌手たちのキャリア形成に貢献するとは、考えただけでも素晴らしいことではないか。あ、それから、前回同様、児童合唱 (京都の小学生たち) も素晴らしい出来で、楽しかったですよ。

今回の演出は、この音楽塾をはじめ、小澤の指揮するオペラの多くを演出してきた米国人のデヴィッド・ニース。小澤とは実に 35演目以上をともに手掛けているというからすごい。メトロポリタン歌劇場の首席演出家であり、その演出には過激な要素は全くないが、作品の本質を嫌味なく舞台化し、音楽を邪魔することがないのがよい。だがよく見ていると、結構細かい箇所にも神経を配っていて興味深い。例えば第 1幕、ミカエラがホセを訪ねてきて母親からのメッセージを伝えるシーンでは、カルメンが煙草を吸いながらこっそりそれを盗み見している。その次のシーンは、カルメンと同僚の喧嘩であり、それがきっかけてホセはカルメンの監視役となるわけだから、もしかするとカルメンは、ミカエラを押しのけてホセの気を引くためにその騒動を起こしたのでは、と思わせるのである。あるいは第 2幕の最後で、ホセが上官と決闘になったあと、上官は山賊たちの囚われの身となって、彼らに同行することを渋々承諾させられ、それゆえに、次の幕にも (歌わないのに) 登場することがあるが、今回の演出では、決闘の騒動が一旦収まったあと、幕切れ間近で、ホセが彼を刺し殺すのである。これはうまい解決法 (?) である。また終幕で、地面に散乱した赤い紙テープがカルメンの血に変わるところも見事。非常に要領のよい演出である。なお、今回のプロダクションは、シカゴ・リリック・オペラのものとのこと。
小澤征爾音楽塾 ビゼー : 歌劇「カルメン」(指揮 : クリスティアン・アルミンク / 演出 : デヴィッド・ニース) 2019年 3月24日 東京文化会館_e0345320_22512939.jpg
さぁ、千秋楽も無事終了し、賑やかなカーテンコール。そこで、私がそうあって欲しいと願ったことが、実際に起こった。小澤総監督が、その姿を見せたのである!! 普段着ではなく、ステージ衣装を身に着けて登場し、いつものようにおどけた仕草もまじえつつ、出演者たちの労をねぎらい、アルミンクとハグし、若いオケのメンバーの健闘を称えていた。かくして客席も沸きに沸いた、第 17回小澤征爾音楽塾公演であった。

来年の音楽塾は、ヨハン・シュトラウスの「こうもり」であると発表されている。これもまた、このプロジェクトではおなじみの演目だが、プロジェクトの意義を噛みしめながら、きっと来年も見に行くことになると思います。

# by yokohama7474 | 2019-03-24 23:09 | 音楽 (Live)

シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (ピアノ : ピエール=ロラン・エマール) 2019年 3月23日 東京芸術劇場_e0345320_17553081.jpg
フランスの名指揮者、シルヴァン・カンブルランの言葉の引用から始めたい。彼が、現在常任指揮者を務める読売日本交響楽団 (通称「読響」) のポストを今月で離れるに当たり、読響は彼にとってどんな存在であるかを質問されたことへの回答である。

QUOTE
私の人生における大きな贈り物であり、私の「今」の姿を表す存在です。読響とは 100%信頼を委ねられる関係が築けました。今は、私のあらゆる音楽作りに、皆が全力で応えようとしています。そうさせたのは「愛」。9年間、音楽の美しさ、音楽から得られる充実感を共有できたことは嬉しい限りです。
UNQUOTE

例えば 30年ほど前なら、国際的キャリアを誇る一流の外国人指揮者が東京のオケの常任指揮者、首席指揮者、音楽監督になることは稀であり、近い関係と言っても、せいぜいが名誉指揮者や、あるいは頻繁に登場する客演指揮者どまりということが多かった。それがある時期から、世界の一線級の指揮者たちが「本気で」東京のオケの活動に取り組むようになり、そして今日があるわけだが、それにしても上のカンブルランの言葉から、読響との活動への彼自身の満足感が感じられて、素晴らしい (まぁ、「愛」だけでオケとの関係は発展するとも思えないが、そこはフランス人特有の発想ということで・・・笑)。そして今回の演奏会、つまり、この 3/23 (土) と翌 3/24 (日) の 2回、東京芸術劇場で開かれるものが、常任指揮者としてのカンブルランと読響とのラストステージなのである。会場には、かつてこのオケで正指揮者を務めた下野竜也から、こんな花が届いていた。
シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (ピアノ : ピエール=ロラン・エマール) 2019年 3月23日 東京芸術劇場_e0345320_18421915.jpg
この「ラストコンサート」の曲目は以下の通り。
 ベルリオーズ : 歌劇「ベアトリスとベネディクト」序曲
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 3番ハ短調作品37 (ピアノ : ピエール=ロラン・エマール)
 ベルリオーズ : 幻想交響曲作品14

このプログラムの妙味は、カンブルランお得意のフランス音楽からベルリオーズを採り上げ、その作曲家の若き日の代表作をメインに、そして最後の作品の序曲を冒頭に持ってくる。その間には、やはりフランスの名ピアニスト、エマールを迎えて、ここだけはラヴェルとかサン・サーンスといったフランス物ではなく、ドイツ物、ベートーヴェンの短調のコンチェルトを演奏する。非常に引き締まったプログラムであるが、その構成は、序曲・協奏曲・交響曲という伝統的なものになっているのも面白い。
シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (ピアノ : ピエール=ロラン・エマール) 2019年 3月23日 東京芸術劇場_e0345320_18360117.jpg
さて、冒頭の「ベアトリスとベネディクト」序曲からして、各声部がよく鳴っていて非常にクリア。このコンビが 9年間築き上げてきた関係の成果であろう。以前も書いたことだが、何十年も前の読響は、楽員は全員男性で、力強い演奏が特徴というイメージであったが、それから時代を経て、様々な経験の蓄積と、歴代指揮者たちの薫陶によって、このような洗練が実現したということであろう。洒脱な部分もあり、またベルリオーズらしい熱狂も少し出て来る曲だが、聴いていて大変楽しかった。

そして、今回絶対聴き逃せないと思ったのが、ピエール=ロラン・エマールのピアノである。このブログでは、2016年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンで、メシアンの「鳥のカタログ」全曲を採り上げた 3回の演奏会を記事にしたことがあるが、私が彼の実演に接するのは、それ以来である。今回彼は、カンブルラン / 読響とは、3/19 (火) にもメシアンの「7つの俳諧」で共演しているが、私はそのコンサートは聴けなかったので、今回が楽しみであった。しかも、しつこいようだが、フランス物ではなく、ベートーヴェンである。エマールのベートーヴェンと言えば、アーノンクールと組んだ録音もあるが、あの知性溢れるクールなピアノが、この 3番のコンチェルト (5曲あるベートーヴェンのピアノ協奏曲のうち、唯一短調で書かれている) をどう表現するかを実演で聴けるとは。得難い機会である。
シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (ピアノ : ピエール=ロラン・エマール) 2019年 3月23日 東京芸術劇場_e0345320_18531519.jpg
聴いてみて、圧倒された。優れたピアニストは数々あれど、このピアノはちょっと格別である。タッチは常に澄んでいて、非常にクリアな音質なのだが、そこには作曲者が込めた情熱も充分なら、しばしの感傷も説得力があり、また、力強い疾走感も素晴らしい。なんと言えばよいのだろう、音を弾きこなしてそれらしい出来に揃えるようなピアノではなく、一音一音に命がある。そんな印象だろうか。現代音楽に定評のある人であるからこそ、このようなベートーヴェン演奏には大きな意味がある。真に偉大なピアニストなら、当然表現の幅も持っているはずで、その真価はあらゆる音楽に発揮されるはず。まさにエマールはそのような第一級のピアニストであることを、ここに再確認した次第である。実は、もしかするとカデンツァで突然メシアン風になるとか (笑)、そんなことがあっても面白いかな・・・とひそかに思っていたが、なんのことはない、作曲者による通常のカデンツァでした。カンブルランと読響の伴奏も、そんな一音一音に命が宿るピアノに巧みに絡んでいて、全体として非常にクオリティの高い演奏になっていた。

そしてメインの幻想交響曲は、期待通り、瞠目の名演となった。冒頭、指揮者が指揮棒を構えたところで客席から咳が聞こえ、カンブルランは指揮棒をそのまま止めて、完全な沈黙が到来するのを待ってから音楽を始めた。これは冒頭の旋律を吹くフルート奏者をはじめとする木管の人たちにとっては、緊張の一瞬だったのではないだろうか。だが、このアクシデントによって、むしろ指揮者とオケの呼吸はぴったりと揃うこととなり、まさにカンブルラン自身の言葉にある通り、彼の音楽作りに楽員たちが全力で応えている。流れて行く音楽のどの場面を取っても、そこには音楽本来の力が漲っている。カンブルランはあまりタメを作る方ではないので、このエキセントリックな交響曲に含まれた狂気の圧倒的表出という感じにはならないが、その代わり、この音楽はこの鳴り方しかないという自信が溢れている。素晴らしい美感に溢れたベルリオーズではないか。これこそがカンブルランと読響の 9年間の共同作業の到達点であろう。弦楽器のうねりも、管楽器の自発性も、実に感動的であった。あ、それから、この曲にはよく知られている通りティンパニが 2組必要だが、そのうち 1つを叩いていたのは、都響の久一忠之のように見えたが、もしそうなら、強力な助っ人が入っていたことになる。この「幻想」、2009年にカンブルランが読響と初めて録音した作品であるらしく、今回の演奏には、この両者の歴史の原点を思い出すという意味もあったのだろう。そう思うと一層感動的な演奏であった。

会場では、4/10 発売予定のマーラー 9番の CD を先行発売していたので、購入した。この時のライヴについて私は、もう少し情念があった方がよいのでは、ということをこのブログで書いた記憶があるが、録音で聴いてみるとまた違った印象もあるかもしれないので、心して聴いてみたいと思う。
シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (ピアノ : ピエール=ロラン・エマール) 2019年 3月23日 東京芸術劇場_e0345320_21112738.png
来月から始まる読響の新シーズンでは、新常任指揮者のセバスティアン・ヴァイグレが早速彼の個性を打ち出す演目を並べていて、これはこれで楽しみだ。来シーズンの予定にはカンブルランの名前はないが、また遠からぬ時期に読響の指揮台に戻ってきてくれることを願ってやまない。

# by yokohama7474 | 2019-03-23 21:20 | 音楽 (Live)