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上岡敏之指揮 新日本フィル (ピアノ : クレール=マリ・ル・ゲ) 2019年 3月22日 すみだトリフォニーホール_e0345320_08321184.jpg
このブログのクラシック音楽の記事を読んでおられる方は、これまでの流れから、この日 (3/22 (金))、私が出掛けるコンサートは当然、サントリーホールにおけるグスターボ・ドゥダメル指揮ロサンゼルス・フィルによるマーラー 9番であると思われたであろう。実際のところ、そのコンサートのチケットを購入していた。だが私にはどうしても行きたいと考える別のコンサートがあり、熟慮の末、そのチケットは処分し、そして出掛けたのがこのコンサートである。音楽監督上岡敏之が指揮する新日本フィルの演奏会で、以下のような曲目であった。
 モーツァルト : 交響曲第31番ニ長調K.297「パリ」
 ラヴェル : ピアノ協奏曲ト長調 (ピアノ : クレール=マリ・ル・ゲ)
 マニャール : 交響曲第 4番嬰ハ短調作品21

うーん、これをどのように評したらよいだろう。フランス音楽と、フランスにまつわる音楽? 上岡は長くドイツで活躍している人だけに、新日本フィルとのプログラムも、ドイツ物の比重がかなり多くなっているが、その彼が採り上げるフランス音楽となると、それだけでも興味深いのだが、いやいや、ことはそれほど単純ではない。そもそもメインのマニャールについて語ることができる音楽ファンが、日本に一体どれだけいるというのか。実は私がこのコンサートをどうしても聴きたいと思ったのは、このマニャールゆえであった。以前の記事にも書いたが、上岡は今シーズンの主たる内容の紹介の中でこのマニャールに言及し、「ドビュッシーやラヴェルと同時代に、全く違った音楽を書いた人がいたことを知って欲しい」と語っていた。そう、このマニャールについては、私は随分以前に、「フランスにもマーラー風のシンフォニーを書いた人がいた」という紹介のされ方がされているのを見て、ずっと興味を持ってきた。彼のシンフォニーは、手元に CD はあるものの、実演で聴く機会はそうそうあるものではない。それがこのコンサートを選んだ理由である。この上岡という指揮者の熱意と冒険心には、強い感銘を受ける。
上岡敏之指揮 新日本フィル (ピアノ : クレール=マリ・ル・ゲ) 2019年 3月22日 すみだトリフォニーホール_e0345320_08550665.jpg
では順番に、ざっと演奏を振り返ってみよう。最初のモーツァルトの「パリ」交響曲は、文字通りパリで作曲されているわけであるが、よく解説には、「マンハイム楽派の影響が見られる」とある。要するに、ドイツのマンハイムの宮廷にはヨハン・シュターミッツを中心とした優秀な作曲家、演奏家が集まっており、古典派音楽の確立に貢献したところ、モーツァルトはそのマンハイムに滞在し、マンハイム楽派からの影響を大いに受けた、というもの。オケの編成はクラリネットを含む比較的大きなもので、これはパリの楽団の編成を前提にしているようだ。3楽章の活き活きとした交響曲であるが、スコアを譜面台に置きながらも全く手をつけずに、非常に丁寧な身振りで楽しそうに指揮する上岡に、オケが敏感に応える、いい演奏だった。もっと角の立った演奏もあるだろうが、このコンビではとげとげしい演奏には決してならないのである。それにしても、ドイツの音楽活動の影響が、パリで書かれたシンフォニーに表れているという点、ただ単にこの曲がフランス趣味であるということを超えた歴史的な意義があるわけだ。

2曲目のラヴェルのコンチェルトは、これはもう近代フランス音楽の王道を行く曲。ソロを弾いたのはフランスの女流、クレール=マリ・ル・ゲ。
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私も初めて聞く名前だが、既に幅広く活躍しており、リストやシューマン、モーツァルトや、面白いところではデュティユー、あるいは最近ではバッハを録音しているらしい。ちょっと名前が覚えにくい (マリ=クレールというファーストネームならよくあるが、彼女の名前はその反対だ) 点が難点だが、なかなかに素晴らしいピアニストである。私が感動したのは第 2楽章で、この透明な美しい音楽を、これみよがしに感傷的になるのではなく、比較的大きな音量で、明確なタッチで弾き進んで行くあたり、高い美意識を感じた。その点では、アンコールで弾いた同じラヴェルの「悲しい鳥」(「鏡」の第 2曲) も同様で、これを聴けただけでも価値がある。もちろん、コンチェルトにおける速いパッセージやジャズ風の箇所でも、技術は充分だがそれだけに依存しない走り方が、素晴らしい。新たなピアニストを知る喜びを感じたのである。尚、彼女は今回、ピアノの中にタブレットを入れ、やはりペダルでそのページめくりを操作していたようだ。これからはこのやり方が増えるかもしれない。

さて、アルベリク・マニャール (1865 - 1914) である。上で書いた通り、私が彼の名を知ったのは、「フランスにもマーラー風のシンフォニーを書いた人がいた」という表現をどこかで見たからである。その後、ステレオ初期に数々のフランス音楽 (とロシア音楽) を録音して一世を風靡したエルネスト・アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団が、このマニャールの 3番のシンフォニーを録音していることを知った。そして、私の敬愛するミシェル・プラッソンとトゥールーズ・キャピトル管弦楽団による 37枚組の CD において、マニャールの 4曲のシンフォニーがすべて含まれていることを知って、喜んだ。だが、それらの CD を聴き込んでマニャールについて何か語れるほどの知識・経験が私にあるかというと、残念ながらそういうわけではない。ただ、ひとつ言えることは、ドビュッシーとラヴェルに代表される近代フランス音楽においては、弦の合奏よりも管の漂うような感じが重要であったり、ソナタならソナタという既成の形式から自由である点に比較すると、このマニャールの曲は、それらとは全く異なり、ドイツの後期ロマン派に近い音がする。だからこのマニャールのシンフォニーは、上記のモーツァルトの場合と逆で、ドイツの影響を受けたフランスの音楽というわけだ。ただ、「マーラー風」と言っても、そのシンフォニーは 1時間半を要するわけではなく、声楽を導入しているわけでもなく、オーソドックスなものである。生年を見てみると、マニャールはドビュッシーよりも 3つ下、ラヴェルよりも 10歳上。ドイツ系の作曲家と比べると、マーラーより 5歳下、シュトラウスの 1歳下である。経歴を見ると、ヴァンサン・ダンディの弟子である。ダンディは言うまでもなくセザール・フランクの弟子であるから、ここにひとつのユニークな系譜があるとも言えるだろう。これが 35歳の頃のマニャール。
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実はこの作曲家、悲劇的な最期を遂げている。没年が 1914年とあるのを見て、はっはぁもしかして、第一次大戦で戦死したのかと思いきや、実はもっと悲惨で、自宅のあったバロンという小村に侵入して来たドイツ軍兵士と銃撃戦になり、そこで殺されてしまったのである。それだけではなく、自宅には火をかけられ、焼け跡から黒焦げの死体として発見されたという。戦争に関連した作曲家の死というと、我々はすぐにアントン・ウェーベルンを思い出すわけだが、そちらの方は戦後すぐの緊張状態の中での不幸な事故のようなものであり、このマニャールのように、勇敢に戦って死んで行った作曲家は、ほかにはいないのではないだろうか。実は私の手元には、この作曲家の室内楽全集という CD もあるのだが、このジャケットは何だろうと思ったら、自宅を防衛するマニャールの姿を描いたものであった。尚、この CD の解説書に、焼け落ちたマニャール邸の古い写真も載っているので、ここに掲げておこう。
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さて、前置きが長くなってしまったが、今回演奏された交響曲第 4番 (嬰ハ短調という珍しい調性は、マーラー 5番と同じ) は 1914年の作。つまり、彼の最晩年の作品ということになる (といっても僅か 49歳なのだが)。演奏時間 40分ほど、伝統的な 4楽章からなるが、第 2楽章以下は続けて演奏され、今回の演奏では、第 1楽章と第 2楽章の間でも、指揮者は指揮棒を下ろすことなく、ほぼ続けて演奏された。ここで聴かれる音響は確かに後期ロマン派風であり、迫力あるオーケストラの音が連続する。1914年と言えば、ドビュッシーは既に「牧神」はおろか、「ペレアスとペリザンド」、「海」、前奏曲集第 1集、そしてバレエ「遊戯」を書いている。ラヴェルはかなり年下だが、既に「マ・メール・ロワ」や「ダフニスとクロエ」を書いている。そんなときに、このようなシンフォニーを書いた作曲家は、やはり時代遅れと当時評されたのも無理はあるまい。だが、これは確かにマーラーやシュトラウスが好きな人間にとっては、なかなかに聴きどころの多い曲である (また、マニャールを「フランスのブルックナー」と称する向きもあるとか)。フランク譲りと言ってよいのか否か、循環主題も使っていて、散漫になりがちな印象を避けようとしているようだ。そもそも 19世紀末から 20世紀初頭にかけて、フランス音楽界にはワーグナーの影響が絶大で、特にドビュッシーなどはそれが顕著なわけであるが、ワーグナーと言っても、「トリスタン」とか「パルシファル」、あるいは「ジークフリート」の森の場面からの影響であって、重厚な音でぐいぐい進んで行くというワーグナー本来の側面に追随すると、このマニャールのシンフォニーにようになると考えればよいのだろうか。上岡と新日本フィルの演奏は、ここでも曲の隅々に神経を行き渡らせており、初めて実演でこの曲に接する聴衆にも、「ほら、こんな知られざる名曲があるのですよ」とストレートに訴えかけてくる。私は聴きながら考えていたのだが、例えばフランスにも、ショーソンとかデュカスの優れた交響曲がある。それらは、日本にフランス音楽の美を伝えてくれた指揮者ジャン・フルネが度々採り上げたことで、我々聴衆にもなじみができたという面がある。だがそのフルネも、マニャールを採り上げたとは聞いたことがない。その意味では、いかに東京が巨大な音楽市場ではあっても、演奏家の努力なしには聴衆は育たないんだなぁと思ったものだ。そうこうするうちに、アンコールが演奏された。あれ、この、ウェーバーとロッシーニを足してモーツァルトのフレーバーをまぶしたような音楽、なんだっけ。答えは、ボワエルデューの「白衣の婦人」序曲。おぉ、そうだったそうだった。これはフルネお得意の曲目。例えば東京都交響楽団とのこんな CD にも入っているし、なんとこのオペラの全曲も録音している。
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そんなわけで、一風変わった「フランス音楽」プログラム、様々なことを考えるヒントを与えてもらった。上岡と新日本フィルとのこのような試みには賛辞を捧げたいし、客席も、心配したほどガラガラではなくて、まずはよかったと思う。世界のメジャーオケの演奏ももちろん捨てがたいが、東京のオケの積極的な活動も、できるだけ体験したいと私は思うのであった。

# by yokohama7474 | 2019-03-23 10:58 | 音楽 (Live)

ジョン・ウィリアムズ・プログラム グスターボ・ドゥダメル指揮 ロサンゼルス・フィル 2019年 3月21日 NHK ホール_e0345320_21483481.jpg
この演奏会の休憩が終わって後半が始まる前、ホールのスタッフが私の席の近くにやってきて、周辺の聴衆に対して注意事項を語りかけた。どうせ携帯電話を切ってくれということだろうと思ったら、なんと、「音楽に合わせての体の揺れは、お近くのお客様のご迷惑になるので、おやめ下さい」とのこと。あらら、この東京では遂に、ノリノリの音楽に合わせてリズムを取ることもできなくなってしまったのか (笑)。まぁ、そのような他人のノリノリぶりを迷惑だと感じる人の気持ちも分からないではないが、でもこういうコンサートでは、そのくらい許されてもよいのではないだろうか。というのも、このコンサートは、映画音楽の巨匠として知られるジョン・ウィリアムズの音楽を、ハリウッドのお膝元に本拠地を擁する名門ロサンゼルス・フィルが、英名高いその音楽監督、グスターボ・ドゥダメルの指揮で演奏するという、特別なものなのであるから。上に掲げたポスターの通り、これは NHK 音楽祭 2018 の中の「特別公演」。ほかの 3公演は昨年 9月から 11月までの間に終了しているが、このコンサートだけが今年にずれ込んで開催されることとなった。ともあれ、会場である NHK ホールの入り口にはこのようなセット (?) が作られ、ホール内のロビーもなぜか、赤い照明になっていた。
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今回のドゥダメルとロス・フィルの日本公演は、前日が、前回の記事でご紹介したマーラーの「巨人」をメインにしたもの。そしてこの日のジョン・ウィリアムズ・プログラムを挟んで翌日が、マーラーの、今度は 9番である。このスケジュールはなかなかにチャレンジングではあると思うのだが、私としては、真ん中に挟まったこのジョン・ウィリアムズ・プログラムにも、是非足を運びたいと思ったのである。それは上記の通り、このオケの本拠地はハリウッドがあるロサンゼルスであり、その地のオケとして、このようなプログラムを演奏するには最適の存在であるからだ。音楽には、それぞれの土地の個性が刻まれている。その意味で、ジョン・ウィリアムズ (1932年生まれで現在 87歳!!) の作品のような良質な映画音楽の世界を、良質な演奏で世界に届けるのは、このオケにとってのひとつの使命とも言えるのではないか。いや、もちろん、ロス・フィルとても、(夏のハリウッドボウルでの野外コンサートは例外なのかもしれないが) そのような活動を常に積極的に行ってきたわけでは、必ずしもない。やはりドゥダメル時代になってから、音楽の裾野をより広げるという目的が明確になったのではないだろうか。それから、このオーケストラが活動するホールの名前をご存じだろうか。それは、ウォルト・ディズニー・コンサート・ホール。その名の通り、ディズニーが建てたホールなのである。こんな奇抜な建物だが、私はこの建物の前までレンタカーを運転して行って、外からマジマジと眺めたことはあるものの、残念ながら中でコンサートを聴いたことはない。
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ディズニーの現代映画界における地位は非常に重要であり、今や「スター・ウォーズ」もディズニーによって製作されている。夢の工場ハリウッド、ディズニー、そしてジョン・ウィリアムズ。いずれも人をワクワクさせる名前であり、音楽ファンにとっては、そこにドゥダメルとロス・フィルの名をつなげることになんらの躊躇もないはず。そんなドゥダメルとロス・フィルによる今回のプログラムは、まず最初に「オリンピック・ファンファーレとテーマ」(1984年のロス・オリンピック用に作曲されたもの)。そして、以下の映画からの音楽であった。
 未知との遭遇
 ジョーズ
 ハリー・ポッター・シリーズ
 シンドラーのリスト (ヴァイオリン : 三浦文彰)
 E.T.
 = 休憩 =
 フック
 ジュラシック・パーク
 インディ・ジョーンズ・シリーズ
 SAYURI
 スター・ウォーズ・シリーズ

NHK ホールのロビーでは、10分間に亘るウィリアムズとドゥダメルの対談の映像が流れていて、これが大変面白かった。まず曲目については、オリンピック・ファンファーレで始めるのは、来年の東京オリンピックに対するエールであるとのこと。映画音楽については、まず「スター・ウォーズ」は作曲家と指揮者で意見が一致し、ついで、「E.T.」、「ジュラシック・パーク」、そして「ハリー・ポッター」というあたりが日本でも人気があるだろうということで、決まったとのこと。ドゥダメルは、この選曲による流れは素晴らしく、まるで大交響曲のようだと絶賛。ウィリアムズは、日本で演奏するのだから、日本料理のようにヴァラエティあるコースとして、甘いものも歯ごたえのあるものも含めるのがよいと思ったと発言。そのような会話に先だって、もともとジャズ・ピアノを弾いていたウィリアムズがいかにして映画音楽を手掛けるようになったかや、ロス・フィルとの過去の長い関係などにも言及されていた。

さて、ロス・フィルによる J・ウィリアムズ作品の録音というと、私の世代では、ズービン・メータ指揮による「スター・ウォーズ」と「未知との遭遇」のレコードが何と言っても懐かしい。当時中学生であった私はこの録音を聴いて (もちろん映画も見て)、「過去のクラシック音楽の中には、劇付随音楽とかバレエ音楽などで歴史に残っているものが多くあるわけだから、これからは映画音楽が独立して音楽として聴かれても、全く不思議ではない」と思ったことを、鮮明に覚えている。それから 40年を経て、そのあたりの状況が変わったかと言えば、さほどではないかもしれないが、それにしても今回のような演奏で聴くと、やはり J・ウィリアムズの音楽の持つパレットの豊かさ、人間の感情に訴える技術の高さ、そして音楽としての美しさに、改めて気づくのである。それにしてもロス・フィルのスタミナはすごい。最初から最後まで、その音は艶やかかつ強力で、ドゥダメルの洗練されたリードのもと、それぞれの音楽が、映像がなくとも、音楽として楽しめるということを証明した。選ばれた音楽は、それぞれの映画のメインテーマとは限らず (例えば「ジョーズ」は、有名なあの曲ではなかった)、聞き覚えのない曲もあったし、その一方で、誰でも知る曲も沢山含まれていて、まさに百花繚乱。それから、「シンドラーのリスト」を弾くだけのために、若手ヴァイオリニスト三浦文彰が登場したのも、実に贅沢。悲劇性を秘めた哀感溢れる音楽を、端正に弾いていて見事であった。
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アンコールは 2曲演奏されたが、そのうち、最後に演奏された 1曲は、既に開演前から明らかであった。それは、ホルン奏者が中間部のメロディを練習していたからだが (笑)、その曲は、私の大好きな「スーパーマン」のテーマであった。だがその前に演奏された、弦楽合奏だけによる抒情的な曲はなんだろう。答えは、「スター・ウォーズ エピソード 7 フォースの覚醒」の中の「アダージョ」であった。うーん、こんな曲、あったっけなぁ。非常に美しい曲で、やはり映画の中で流れる音楽と、純粋に音楽として聴くものとでは、受け取り方も違うのだと実感した。そう、いずれの曲も、ドゥダメルとロス・フィルならではの素晴らしい演奏であった。

実はこの指揮者とオケで、ちょうど J・ウィリアムズ作品集が発売されたばかり。ちょっと内容を確認しようと思ったら、なんと!! 今回のコンサートの内容と、最初から最後まで (アンコールを含めて)、全く同じである。ということは、やはりこの選曲、作曲者と指揮者が納得して録音し、それをツアーにも持って行くことになったものであるのだろう。日本料理のコースとの類似性は、この作曲者一流のリップサービスであったのかも (笑)。ともあれ、この CD があれば今回の感動を再度体験できるし、また、今回のコンサートは 5月 5日に NHK で放送予定とのことだから、それを見てもよし。J・ウィリアムズの音楽、これからも多くの聴衆を惹きつけることだろう。自宅なら、いくらノリノリで体を揺すっても、他人様の迷惑にはなりませんからね!!
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# by yokohama7474 | 2019-03-21 23:03 | 音楽 (Live)

グスターボ・ドゥダメル指揮 ロサンゼルス・フィル (ピアノ : ユジャ・ワン) 2019年 3月20日 サントリーホール_e0345320_21582181.jpg
米国の名門オケ、ロサンゼルス・フィルハーモニックは今年創立 100周年を迎える。それを記念して、音楽監督グスターボ・ドゥダメルとともにアジアツアーを行っており、東京ではサントリーホールで 2公演、加えて NHK ホールでの NHK 音楽祭の一環としてのコンサート、さらには、前回の記事で触れた通り、このオケの奏者たちとピアニストのユジャ・ワンとの共演で、室内楽公演がある。実は日本に来る前にはソウルで (室内楽を含む) 3公演をこなしてからの来日であり、日本国内では地方公演はない。ベネズエラ出身で、20歳そこそこの若い頃から天才の誉れ高いドゥダメルは、今では頭に霜を置くようになってはいるものの、未だ 38歳。やはり指揮者としては依然として若手と呼ぶべき年齢である。このロス・フィルの音楽監督の地位は 2009年から務めているが、前回の来日公演でのマーラー 6番や、いくつかの録音・録画で知る限り、この両者の相性はかなりよいものであると私は思っている。
グスターボ・ドゥダメル指揮 ロサンゼルス・フィル (ピアノ : ユジャ・ワン) 2019年 3月20日 サントリーホール_e0345320_09454680.jpg
だがその一方で、正直なところ、若き日に鳴り物入りでマーケットに出てきた天才が、いつまでも天才であり続けることは、存外に難しい。例えば最近私は、レコード芸術誌の海外レポートの欄で、彼の演奏に対する驚くほど厳しい評価を目にした。要するに、音は鳴っているけれども、作曲家が曲に託した内容をまるで理解できていない、という論調であった。きっと世界中のドゥダメル・ファンはこのような評価に異を唱えるであろうが、天才とても人の子。当然スランプもあれば、芸術上のスタイルの変化もあることだろう。このタイミングでこのドゥダメルとロス・フィルを生で聴けるという貴重な機会に、自分なりにそのあたりを考えてみたい。というわけで、今回の曲目は以下の通り。
 ジョン・アダムズ : Must the Devil Have All the Good Tunes? (ピアノ : ユジャ・ワン 日本初演)
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」

ここでひとつ興味深いのは、ちょうど前日同じサントリーホールで行われたファビオ・ルイージ指揮デンマーク国立響の演奏会では、デンマークのソレンセンという作曲家の近作が日本初演された。その翌日のこのコンサートでは、今度は米国を代表する作曲家であるジョン・アダムズのやはり近作の、日本初演である。これは、演奏する側も企画する側も、東京ではこのような曲目を採り上げても集客が期待できると見込んでのことだろう。生まれたての現代音楽を耳にすることは、既成名曲を繰り返し聴くだけでは得られない新鮮な喜びと意義があり、私としては大賛成だ。しかもそこでソロを弾くのが、あのユジャ・ワンとなると、やはりこれは聴き物である。
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ジョン・アダムズは 1947年生まれなので、現在 72歳。いわゆるミニマル・ミュージックの作曲家と目されることもあるが、そのスタイルをミニマルに決めつける必要はもはやなく、米国を代表する作曲家である。日本でも彼の作品に接する機会は、存命の作曲家としては異例に多い。彼の音楽は平明さを持ち、充分に美しいがゆえに、支持されているのだろう。今回演奏された曲は、原題のまま表記されているが、直訳すると「悪魔はすべての名曲を手にしなければならないか?」というもの。アダムズ自身の言によると、以前雑誌「ザ・ニューヨーカー」に載っていた、社会活動家ドロシー・デイに関する記事にあったフレーズであるとのこと。このドロシー・デイ (1897 - 1980) については私も全く知識がなかったが、調べてみると、Wiki にも詳しい日本語の記事がある。キリスト教社会主義の立場を取った、ブルックリン出身の女性活動家。アダムズはこの題名から、ヨーロッパ中世以来のイメージである「死の舞踏」を思い浮かべたが、それを米国風にファンキーにする (原語では、"a funk-invested American style") ことにしたとのこと。なるほど、面白いイメージである。もともとヨーロッパでは、音楽は人間を誘惑するものとされていたので、つまり、悪魔が人間を誘惑するには音楽を使うわけだが、悪魔にしてみれば、そんなにあれこれ名曲を手元に用意しておかずとも、人間なんて簡単に誘惑される存在だ、と、そんな意味のフレーズなのだと解釈した。これは、ハンス・ホルバイン描くところの「死の舞踏」(Totentanz)。
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この曲はアダムズにとって 3曲目のピアノ協奏曲で、ロサンゼルス・フィルの委嘱によって書かれており、このユジャ・ワンとドゥダメル / ロス・フィルによって、今年の 3月 7日に世界初演がなされたばかり。ということは、この演奏会から遡ること、ほんの 2週間弱である。まさに出来立てホヤホヤのコンチェルトなのである。曲は切れ目なしに演奏される 3楽章からなり、全曲 30分ほど。構成は伝統的な急 - 緩 - 急で、アダムズらしく聴きやすい音楽である。最初の部分はピアノを打楽器風に使っていて、ちょっとストラヴィンスキーの 3楽章の交響曲を思わせる。オケの編成を見てみると、金管にチューバを欠いているが、その代わりにベースギターがよく低音を響かせていて、ユニークな響きになっていた (解説には、途中で「ピーター・ガン」のテーマが出て来るとあったが、いかにもそんな感じの曲調)。ユジャ・ワンについてはこのブログでも過去何度も採り上げてきたが、最近聴いたブラームスの 2曲のコンチェルトでは、もうひとつ圧倒的な迫力を感じない物足りなさがあった。その点このような曲では、実に自由奔放な演奏を展開していて、抒情的な部分も含め、さすがと思わせるものがあった。面白かったのは、彼女はいつもの通りタブレットを (今回はピアノの中ではなく譜面台に) 置いていたが、手を触れることなくそのページがめくられていた。演奏開始前に係の人が、何やら足元に置いていたので、ペダルを使ったということだろうか。ついにピアニストも、通常のピアノのペダル以外のペダルを操作しないといけない時代になったのか ? (笑) そして驚いたことには、(客席からステージに上がる階段が設置されていたので最初から予想はできたが) 作曲者ジョン・アダムズ自身がステージに登場し、拍手を受けていた。私は日本だけでなくニューヨークでも、彼の新作・旧作を聴いたことが何度かあるが、本人がステージに出て来たのを見た記憶はない。実はアダムズは 2009年からこのロス・フィルの Creative Chair というポジションを持っているようで、つまりは楽団関係者ということもあって、今回はツアーに同行しているということだろうか。それにしても、前日のソレンセンに続き、2日連続の日本初演には、ともに作曲家が臨席するという事態は、なんと素晴らしいことか。尚、今回ユジャはアンコールを弾かなかったが、ロスでの初演の際には、同じアダムズの旧作 "China Gates" を弾いたようだ。これは少し残念だが、コンチェルトの演奏には作曲者も満足そうではあった。
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そしてメインの「巨人」である。昨年からこの曲を聴く機会が多く、正直少し食傷気味ではあるのだが、やはりこのコンビで聴いてみると、引き込まれて聴いてしまう。もともとロス・フィルは以前からクリアでパワフルな音を出すオケであるが、その点においてドゥダメルとの相性もしっかりしている。ドゥダメルの解釈は非常にメリハリを強調するもので、冒頭の朝の霧のような音楽は繊細かつ持続力を持って表現し、そして音響の盛り上がりと感情の盛り上がりが、しっかりとリンクしている。第 2楽章のテーマは過剰なほどにデフォルメされており、低音が唸る。これによって中間部との対照が強烈となる。第 3楽章でも、葬送行進曲の荘重さと、後半に出て来る飛び跳ねるような諧謔の音楽との対比は、実に残酷なほど。そしてもちろん、終楽章の長い長い嵐も、ひたすら次を目指す音楽の推進力に支えられて続いて行き、ついにあの熱狂の終結部へ。最後はもちろんホルン奏者 (8人!!) が起立していたが、時折あるようなトランペットとトロンボーンの一部を伴うようなことはなく、起立はホルンだけで、そして、一度起立したら途中で座ることなく、最後まで立って演奏した。私はこの方法が好きである。それにしてもドゥダメルという指揮者、聴き手を熱狂に導く特別な力を持っていると以前から感じているが、その点ではやはり疑いなく第一級の才能である。上で述べたような「音楽の内容」云々についての彼への疑問の声は、かつてもいろんな指揮者についてあったし (カラヤンなどその最たるもの)、指揮者の持ち味も、経験と年齢によって変わって行くもの。これからも毀誉褒貶があるだろう。その時々の演奏内容がよくないことがたとえあったとしても、聴き手としては、これからも真摯に彼の活動に向かい合って行くだけの価値を持つ偉大な才能であると、私は思う。

結局この日は、オケによるアンコールもなし。だが、コンサート本体が充実したものであれば、それでも大いに結構ではないか。

# by yokohama7474 | 2019-03-21 11:27 | 音楽 (Live)

ファジオ・ルイージ指揮 デンマーク国立交響楽団 (ヴァイオリン : アラベラ・美歩・シュタインバッハー) 2019年 3月19日 サントリーホール_e0345320_21571131.jpg
この日、3/19 (水) は、サントリーホールは大賑わいだ。同じ 19時開演で、大ホールではこのコンサートが、小ホールであるブルーローズでは、これもまた来日中のロサンゼルス・フィルの奏者とピアニストのユジャ・ワンによる室内楽のコンサートが開かれていた。実は私は、ろくに日程も確認せずに両方のチケットを買っていたのであるが、よくよく考えた上で、こちらのコンサートを選択した。それにはいくつか理由があるが、やはり最大の理由は、イタリアの名指揮者ファビオ・ルイージが首席指揮者を務めるデンマーク国立交響楽団の初来日という点である。デンマークと言えば、たまたまつい最近、「THE GUILTY ギルティ」というデンマーク映画をご紹介したし、その記事の中で、同国の神秘的な画家、ハンマースホイにも言及した。また音楽に関しては、これも最近の記事で採り上げたシェーンベルクの「グレの歌」の舞台がデンマークであるし、また、カール・ニールセンという近代の作曲家がこの国の誇りである。そうそう、ニールセンと言えば、昔バーンスタインがこの作曲家の交響曲第 3番をデンマークのオケと録音していたが、それは別の団体で、デンマーク王立管弦楽団。この王立管弦楽団はその後、フィンランドの巨匠パーヴォ・ベルグルンドとともにニールセン全集を録音していたりもするわけだが、調べてみるとそちらは、コペンハーゲンのオペラハウスのオーケストラで、その母体の設立は実に 1448年に遡る、世界最古のオケであるという。一方、今回ルイージとともに初来日を果たしたこの団体は 1925年設立で、デンマーク放送協会のオーケストラ。国内ではデンマーク放送 (DR) 交響楽団として知られているらしい。ルイージは 2016年から今の地位にあるが、前任者は日本でもおなじみだったラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス。その前はトーマス・ダウスゴーだ。また、楽団にとっての「中興の祖」はブロムシュテットであるらしい。そもそも放送局のオーケストラは、その多くが戦後の設立であるので、1925年というこのオケの設立は、放送曲のオケとしては非常に古い。初期の薫陶は、フリッツ・ブッシュとニコライ・マルコに受けたというから、その歴史も分かろうというものだ。これは、2009年にオープンした彼らの本拠地、DR コンサートホールの内部の様子。素晴らしいホールであるようだ。
ファジオ・ルイージ指揮 デンマーク国立交響楽団 (ヴァイオリン : アラベラ・美歩・シュタインバッハー) 2019年 3月19日 サントリーホール_e0345320_10505954.jpg
今回、ルイージとこのオケは、ちょうど一週間前、3/12 (水) にも一度サントリーホールで公演を開いている。その後どこに行っていたかというと、金沢、名古屋。福岡、広島。そしてこの後は、西宮、仙台を回る。用意されたプログラムは 2種類で、それぞれが 4回ずつ。東京でだけ 2種類のプログラムが両方演奏されるという、ツアーの内容である。今回私が聴いたのは、以下のようなもの。
 ソレンセン : Evening Land (日本初演)
 ブルッフ : ヴァイオリン協奏曲第 1番ト短調作品26 (ヴァイオリン : アラベラ・美歩・シュタインバッハー)
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品92

現代曲、ロマン派の協奏曲、古典派の交響曲と、なかなかにバランスのよい内容である。そして、私はこの演奏会、大変楽しんだということを、最初に申し上げておこう。まず最初の曲は、1958年生まれのベント・ソレンセンというデンマークの作曲家の "Evening Land" という曲。題名が和訳されていないのは返ってよいことかと思うが、もちろん意味は「暮れなずむ場所」ということであり、作曲者が幼い頃に見たデンマークの田舎町の風景と、現在のニューヨークの街並みを重ね合わせたイメージであるそうだ。この曲はデンマーク国立響とニューヨーク・フィルの共同委嘱によって 2017年に初演されているので、曲のイメージとして、デンマークとニューヨークを重ねてあるということだろう。15分程度の美しい曲で、コンサートマスターのソロが繊細な冒頭部を奏で始め、棚引く夕闇のようなイメージが表出され、管楽器が盛り上がる部分もあるが、最後にはまた静かに収束していく。ここではルイージは譜面を見ながら指揮棒を持たない指揮で、柔らかな音と強い音をうまく使い分けていた。会場には作曲者も来ており、この日本初演に満足げな様子であった。尚この曲、ニールセン 5番をメインとしたこのオケの来日記念盤 (会場で先行発売されていたので購入した) に収録されている。
ファジオ・ルイージ指揮 デンマーク国立交響楽団 (ヴァイオリン : アラベラ・美歩・シュタインバッハー) 2019年 3月19日 サントリーホール_e0345320_11071706.png
2曲目はブルッフの 1番のコンチェルト。マックス・ブルッフはドイツ・ロマン派の作曲家であり、交響曲もヴァイオリン協奏曲も 3曲ずつ書いているし、オペラも書いているようだが、通常演奏されるのはこの 1番のコンチェルトと、いくつかの小品だけである。だがこの 25分ほどの協奏曲、それはもうロマン性たっぷりの名曲なのだ。ソロを弾いたアラベラ・美歩・シュタインバッハーは、ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれた人で、世界のトップクラスで活躍する女流であるが、もちろんこの曲などは手慣れたもので、大変に美しい演奏を聴かせてくれた。この曲、第 1楽章や第 3楽章の序奏と、オケが激しく高揚する箇所以外では、ヴァイオリンはほとんど休むことなく演奏し続ける必要あり、その代わりに、カデンツァを欠いている。なので、力の配分も大事であろうと思うのだが、シュタインバッハーにはそれだけの技術と表現力がある。もっとワイルドに弾きこなす演奏家もいるかもしれないが、私はこの美しい演奏を大変に楽しんだ。また、ルイージはここでは譜面を見ながら、指揮棒を持っての指揮であったが、彼は協奏曲の伴奏も実に巧い。ソロとオケの呼吸を指揮者が取り持つ、理想的な伴奏であったと思う。シュタインバッハーはアンコールとして、クライスラーのレチタティーヴォとスケルツォ・カプリース作品 6を演奏したが、これもまたよく歌う演奏であった。そのアンコールをルイージがステージの袖で、壁にもたれかかりながら聴いていたのも印象的であった。これは終演後にもらったシュタインバッハーのサイン。
ファジオ・ルイージ指揮 デンマーク国立交響楽団 (ヴァイオリン : アラベラ・美歩・シュタインバッハー) 2019年 3月19日 サントリーホール_e0345320_17210613.jpg
ところでこのオケのメンバーは、ざっと見渡してみると、結構若い奏者も多く、その表情はリラックスしており、楽団全体の士気が高いと見受けられる。ルイージとの相性もよいようだし、そのような組み合わせなら、ベートーヴェン 7番の演奏が悪かろうわけがない。少し驚いたことには、今回の編成では、弦はコントラバス 8本という、近代物のレパートリーにおける通常編成であるのに対し、管楽器はオリジナル通り 2本ずつ (ホルンのみ 4本) だ。恐らくこれは、このオケの弦には透明感があるので、このような編成でも弦が管を埋もれさせることはないという、指揮者の判断であったのではなかろうか。実際に聴いてみても、そのような印象を持った。今回は譜面も置かず、暗譜での指揮であったが、やはりルイージという人は、音楽の緩急のつけ方が非常にうまい。冒頭は結構風格ある雰囲気で始まり、序奏はゆったりめだったが、主部に入るところでは、フルートがしっかりと気合を入れて速いテンポ設定を行い、そして疾走が始まった。そして第 2楽章との間はアタッカで続け (これが最近のはやりなのだろうか)、そこでは緩やかなテンポ。第 3楽章はさほど速くなかったが、第 4楽章でギアアップして快速調と、非常にメリハリのきいた演奏になっていた。このオケは、決してスーパーオーケストラという感じではないものの、合奏する喜びに溢れているように思われる。重厚さに寄り過ぎず、だが音楽の充実感をしっかり感じさせてくれる名演であったと思う。

アンコールで何をやるかと思って見ていると、トロンボーンとチューバ、それに打楽器奏者が出て来て、演奏され始めたのは何やら聞き慣れない曲で、コンサートマスターのソロが思わせぶりに歌う。そして主旋律が出て来てビックリしたことには、これはなんと、タンゴの「ジェラシー」ではないか。純然たるポピュラー音楽である。なかなか雰囲気のある演奏で、楽しいアンコールにはなったが、なぜにベートーヴェンのあとに「ジェラシー」??? プログラム冊子に沢山載っているルイージや楽団のマネージャーのインタビューを読んでもヒントがない。だが、自宅に帰ってからの発見がふたつ。ひとつは、昨年出版されたヘルベルト・ブロムシュテットの自伝「音楽こそわが天命」の中にあった。上記の通りこの老巨匠はかつて (1967 - 77年) このオケの首席指揮者であったが、自伝において語ることには、デンマークの放送局はオーケストラを 2つ持っていて、ひとつはこの放送交響楽団、そしてもうひとつ、「洗練された娯楽音楽のために総勢 50人の少し小さいオーケストラがありました」と。時に応じてこの 2つのオケが合同して、マーラー 8番や「グレの歌」を演奏したという。つまり、この「ジェラシー」の演奏は、そのようなオケの活動と関係しているのだろう。だがもうひとつの発見はさらに興味深い。実はこの「ジェラシー」の作曲者はヤコブ・ゲーゼという人で、デンマーク人なのである!! そしてこの「ジェラシー」の初演はもちろんコペンハーゲンで行われているが、それが 1925年。これは、ちょうどこの放送オーケストラが設立された年。つまりこの有名なポピュラー音楽は、このオケと同じ年にデンマークで生まれて、世界に知られるようになったということである。なるほど、ニールセンだけではなく、ルイージは広くデンマーク音楽に目が届いているわけですな (笑)。このように、自らの働く環境に応じてレパートリーを増やし、表現の幅を広げて行く指揮者は信用できる。終演後のサインも、ひとりひとりに "Thank you" と言いながら、実に丁寧な応対ぶりで、大変好感を持つことができた。
ファジオ・ルイージ指揮 デンマーク国立交響楽団 (ヴァイオリン : アラベラ・美歩・シュタインバッハー) 2019年 3月19日 サントリーホール_e0345320_17300920.jpg
このように、大変充実した内容の初来日公演であった。気持ちのよい演奏であったし、また、ルイージの今後の活動を考える上でも、これは重要なコンビであると思うのである。注目したい。

# by yokohama7474 | 2019-03-20 22:08 | 音楽 (Live)

井上章一著 : 南蛮幻想

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前の記事に引き続き、歴史を扱った書物である。ただ実際のところ、この本と、前回ご紹介した本との間にはいくつかの相違点がある。まず、前回のものが、書店で購入した比較的最近の本であったのに対し、こちらの方は、1998年発行の本を、最近古本屋で見つけて購入したものであること。もうひとつの違いは、前回は歴史を独学で学んだ著述家の書物であったのに対し、こちらは学者による書物であるということだ。それから、扱っている時代が違う。この書物は古代史ではなく、題名と、上に掲げた表紙写真からも明らかである通り、南蛮文化、すなわち近世になってから日本に入ってきたヨーロッパ文化を主たるテーマにしたものであるからだ。この南蛮文化は、私としては以前から大いに興味のある分野であり、また、著者があの井上章一ともなると、これはやはり読みたくなる。このブログでも、2016年 7月28日の記事で、彼の「京都ぎらい」という本を採り上げ、またその記事の中で、そもそもこの井上という人の名を知ったきっかけとして、桂離宮を美しいという思い込みは、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトが創り出したものであるという書物を著していることだと書いた。そんな彼が今から 20年前にこんな本を出していたとは知らなかった。Wiki で調べるとこの本は出版当時、芸術選奨文部大臣賞なるものを受賞している由。

この書物においては、日本に存在している、あるいはかつて存在していた建築や演劇、あるいは伝説などの中に、ヨーロッパ起源のものがあるのではないかという言説に対して、そのような論の発生や、それへの反論の歴史的経緯を探ることで、日本における西洋文明との対峙方法の推移が考察される。主として取り上げられる東西文明の交流は以下の通り。
・織田信長が作った安土城は、日本の城郭建築として初めて本格的な高層建築であったが、その設計にはキリスト教の教会に倣う部分が多く、つまりは日本の城郭建築はヨーロッパにその起源がある。一般の城で天守と呼ばれるメインの部分は安土城では「天主」と呼ばれ、これはそのままキリスト教の神のことである点、その証左である。
・日本庭園に時折見られる織部灯籠と呼ばれるスタイルの灯籠には、キリスト教のモチーフが見られる。これは禁教時代にキリシタンがカモフラージュとして作ったものである。
・幸若舞の演目に「百合若大臣 (ゆりわかだいじん)」というものがあるが、その内容は古代ギリシャのホメロスによる「ユリシーズ」と、題名を含めて細部まで類似点があり、これは近世にヨーロッパから日本にもたらされたものである。
・聖徳太子に重用された渡来人、秦河勝 (はたのかわかつ) はネストリウス派キリスト教 (景教) を信仰していたユダヤ人であり、秦氏が住んだ京都の太秦 (うずまさ) にはその痕跡がある。

これら以外にも、聖徳太子が馬小屋に生まれていることはキリストの伝記に由来するものであること、あるいは法隆寺などに見られるエンタシスという中間部の膨らんだ柱の形態が古代ギリシャ由来であること、また、毛利元就が死ぬ前に息子たちに諭した三本の矢の逸話は、実はヨーロッパ起源であること、などの説も言及されている。要するに、ユーラシア大陸の東の端と西の端に遠く離れて存在する日本とヨーロッパに、様々な共通点が見られるということである。ここで井上は、特に安土城の天主の話と百合若大臣の話に多くのページを割いて、それらの論がいついかなるかたちで登場し、また時勢に応じて変貌して行ったかということを詳しく述べている。

このブログでは既に、安土城も太秦も採り上げている (2016年 7月22日の記事と、2018年 2月 4日の記事)。せっかくなので、それぞれの記事から、安土城の想像復元模型 (吹き抜け構造がヨーロッパの教会の模倣か?!) と、太秦の蚕の社にある三柱の鳥居 (三位一体を表すのか?!) の写真を再録しておこう。
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私自身は、以前もどこかの記事で書いたことがあるが、日本とヨーロッパは遠く隔たってはいても、ユーラシア大陸という巨大な土地でつながっていて (まぁ、厳密には日本に来るにはどのみち最後は船が必要だが)、実は文明の根底のところで共通するところがあってもおかしくない、どころか、その方が自然であると思っている。ただ、時代が下るにつれ、キリスト教ならキリスト教、仏教なら仏教が、それぞれに巨大宗教としての発展を遂げたことに加え、社会の成り立ちや気候風土によって、東西の違いがより大きくなって行ったわけであろう。この「南蛮幻想」においては、20世紀初頭の頃、つまり日本が近代国家として先進国に追いつこうとしていた頃に、安土城や百合若大臣という題目を通して、日本とヨーロッパとの過去の交流についての論説が盛んになったことが、詳細に述べられている。つまり、ユーラシア大陸の東の果ての島国である日本にも、ちゃんとヨーロッパの文明がもたらされていたという事実を認識したいという欲求があったということだろう。これは私の大好きな (?) 日ユ同祖論 (日本人の祖先がユダヤ人であるという説) などと同様の心情によるものだろう。日本は遅れた三流国ではなく、ちゃんと先進地域であるヨーロッパと根幹でつながっているのだという思いである。この書物においては、柳田邦男や折口信夫、坪内逍遥や新村出といった、よく知られた名前から、歴史学の専門家なら知っているであろう学者の名前、あるいは無名な地方の歴史研究者の著作まで、様々な人たちの名前が出て来る。そして、日本の近代化時代から戦争に向かう時代、敗戦、復興という歴史の中で、この種の議論の主流が移り変わって行ったことが述べられている。そこから学ぶことができるのは、学者とても人間であり、時流におもねて忖度する人もいれば、「こうあるべし」という自分のイメージから逃れられない人もいる一方で、学問的真実を探求する気概の人もいる、ということだ。私がそれを読んで感じたのは、学問であってもやはり、何らかのファンタジーとかイマジネーションが研究の動機づけになる場合もある、ということだ。だが、真実の探求には厳密さが求められ、そこには果たしてロマンが必要か、という観点も重要であり、この書物における井上は、あちこちに目線を飛ばして、様々な論者たちの立場を慮っているのである。そのロジックの運びはかなり目まぐるしいが、考えさせられる点は多い。ところでこれが、織部灯籠と言われるもの。果たしてキリシタンの手になるものだろうか?
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この本に書いてあることから少し離れるが、東西の文明の影響関係について、私が知識として知っている例を挙げておこう。例えば仏像の起源。ガンダーラ地方で仏像が初めて作られたという説をよく聞くが、ここで作られた仏像は、明らかにギリシャ彫刻の影響を受けたもの。その一方で、マトゥーラという土地こそ仏像発祥の地だという説もあり、そこでの作風は純粋にアジア的だ。ヨーロッパの学者は前者の説を、アジアの学者は後者の説を支持するのが通例だという。あるいは、こんな話はどうだろう。なぜ中国にラーメンがあり、イタリアにスパゲティがあるのか。中国人は、自分たちが発明した麺がヨーロッパに伝播したのだと言い、イタリア人は、もちろんイタリア人が麺を中国に伝えた (具体的にマルコ・ポーロの名前が出るときもある) のだと言う。自国の文明の正当性や優位性を唱えたいのは、どの国民も同じということだろう。これらを通じて私が面白いと感じるのはやはり、この巨大なユーラシア大陸における文明の広がりという点、そこに尽きる。実際の伝播の時期や手段については謎はつきまとうし、類似はただの偶然ということもあるだろう。だが、重要なのは、人間の営みには、時代も場所も越えた共通性があるということではないだろうか。ここに歴史のロマンがあり、文明のダイナミズムがある。この本によって、そのようなことを考えさせられた。

ただ、この本にも難点はある。2段組構成で 400ページを超える本だが、実のところ、大変に読みにくいところがあるのだ。それは、安土城なり百合若大臣なりについて、過去の言説をあれこれ紹介してくれるのはよいのだが、同じ説明が何度も何度も出て来るし、時間軸もかなり柔軟に前後する (上記で「目まぐるしい」と書いたのはこの意味だ)。同じ名前、同じ論説、同じ背景説明が何度も繰り返されるが、その先の続き方が違っている、そんな箇所が実に多く出て来るのだ。これでは、読者は混乱してしまう。正直、この本に書いてある内容は、さらに切り詰めて、時間軸を明確にし、反復を取り除いて記述することができるだろう。そうすると、こんな立派な本ではなく、新書 1冊に収まるくらいの分量になるのではないか。その方が、読む方としては有難い。それから、ここで紹介されているのは過去の言説の流れであり、著者の井上はそれに対する評価を都度書いてはいるのだが、その書き方に遠慮があったり、「〇〇と取れなくもない」とか「〇〇ではないかもしれないが△△かもしれない」という、なんとも曖昧な表現が多くて、正直その点には、読んでいるうちに苛立ちを覚えてくる。また、他人の考えを評価してはいても、自分自身の考えを書いていないケースがほとんどである点も、その苛立ちを助長するケースがある。もっとも最後の点については、この本は他者の考えの評価が主眼であるので、自分の考えを書いていないという批判は甘んじて受ける、という内容のことを明確に記載している。

こんな具合に、その表現方法にはいろいろと疑問もあるものの、ユーラシア大陸の雄大さを思い、人間の営みの歴史を感じる材料を沢山含む本であることは確かであると思う。ロマンなしには、学問の発達もないと、やはり考えてしまう私であった。

# by yokohama7474 | 2019-03-19 22:52 | 書物