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この映画のポスターは、上記の通り、一見して目につくものだ。上の方には、観客の満足度 100%だの、あちこちで賞を受けているだのとあって、若干賑やかすぎる感じだが、ポスター本体は白を基調とした極めてシンプルなもの。そこに写っているのは、渋い男性がイヤホンを装着している写真である。コピー曰く、「犯人は、音の中に、潜んでいる」。ということはつまり、ここでイヤホンを耳にしている男性が、音の情報だけを頼りに、犯罪に立ち向かうといった内容であると推測される。これは面白そうではないか。ということで、珍しく封切数日後に劇場に見に行ったのである。一体どんな映画であったのか。

これはどこの国の映画かというと、デンマーク。このブログでは過去にも北欧のユニークな映画や、あるいは北欧出身の監督によるハリウッド映画などを幾つかご紹介してきているが、この映画という分野において、なかなかに多彩な才能を輩出してきている土地であると思う。そして今回のような、明らかな低予算映画でありながら、アイデアで真っ向勝負する作風に、改めて感嘆するのだが、監督は実はこれが長編デビュー作。1988年生まれのスウェーデン人、グスタフ・モーラー (と日本語表記にはあるが、苗字の「モー」の部分は M に、O のウムラウトであるので、もしかすると「メー」という発音が近いのでは? もっとも、そうなると、「グスタフ・メーラー」となって、かの作曲家のパロディのような名前になってしまって、あまり響きがよくないか。笑)。これは明らかに、本作の撮影セットでのポートレート。
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この映画の極めてユニークな点は、物語はデンマークの中の幾つかの場所が舞台となっているにも関わらず、すべてのシーンがこの、警察の緊急通報センターの中で展開するところ。と書いてもどういうことか分からないであろうが、つまりは、外の場所にいる人物は皆、電話を通してこの場所の人物と会話をする。つまり、全編 88分の間、観客が目にし続けるのはほとんど、主役のアスガー・ホルムを演じる俳優、ヤコブ・セーダーグレンの姿のみであるのだ。
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これは極めて特殊な映画であることが、お分かりになるであろう。ストーリーも非常に簡単で、この緊急対応を電話で行っている警察官アスガーが、緊急対応を要しないどうでもよい電話に何本か対応した後、これも一見番号違いかと思われる、何やら子供をあやす女性の電話を受ける。だが、この正義感に満ちた経験ある警察官であるアスガーは、その電話の裏にある事情を見抜き、いや、聞き抜き、どうやら誘拐被害に遭っているらしいこの女性から、関連情報をなんとか入手しようと試みる。このコールセンターからは、ほかの地区にある警察にも連絡を取ることができるし、各種情報 (特定のナンバーの車の所有者とか、携帯電話番号から判明する契約者の名前とか) を入手できるので、アスガーは、ありとあらゆる手を使って、自分が目にした、いや、耳にした、現在進行中の犯罪を停めるべく奔走する。いやもちろん、物理的にではなく、すべて電話を通してである。この映画の最大の見どころは、この息詰まる展開にある。見ている誰もが、被害者や幼児に対する感情移入に囚われ、行動力と直観力に満ちたアスガーが鋭く目星をつける犯人に対する憎しみを募らせることだろう。移り変わる場面の現地シーンを一切見せずに、電話の向こうから聞こえてくる音声だけでこのサスペンスを展開する監督の手腕には、実に驚嘆するばかりである。頑張れ、考えろ、次の電話をかけろ、アスガー!!
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監督のインタビューによるとこの映画は、3台のカメラを使って順番に撮影されていったらしい。なるほどそのような一貫した流れを、映像から想像することができる。撮影に当たっては、全体を 8つのパートに分けて行い、それぞれのパートは 5分から 35分であった由。35分の長丁場ともなると役者は大変な緊張感であったと思うが、そのような緊張感が、画面のそこここから感じられる点が素晴らしい。そしてなんとこの映画、13日間で撮影は終了したとのこと。もちろん、大変に密度の高い 13日ではあろうとも、映画の撮影日数としては異例の短さであろう。まさに創意工夫に満ちた映画作りである。因みにこの映画、早速ハリウッドがリメイクを発表したらしく、主演はジェイク・グレンホールだというから、きっといい映画になるだろうが、二番煎じと言われない内容にするのは、なかなか困難ではないだろうか。

さて、ではこの映画の結末についてはどうか。一言で言うなら、やはり面白いと、私も思う。だが、犯罪の真相は、見て行くうちに段々想像できる選択肢の範囲内ではないだろうか。少なくとも私の場合は、その真相に驚愕することはなかった。だがその一方で、改めて題名を考えてみると興味深い。邦題はなぜか、英語表記とそのカタカナを続けているが、原題は "The Guilty"。高校の英語で習うように、the の後に形容詞をつけることで、集合名詞となる。例えば The Rich なら「富裕な人々」。The Dead なら「死者たち」。なのでこの作品の題名は、「罪ある人々」であるわけだ。この意味は、見た人でなければ分からないだろう。人間は弱い存在であり、また罪深い存在なのである。それゆえにこそ、ともに生きている家族の絆が大事なのである。それこそがこの映画が、さりげなく発しているメッセージであろうと思う (従い、ラストシーンでアスガーがかける電話の相手は、自明であろう)。
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ところで、この映画はデンマーク映画であると冒頭の方で述べた。この映画を見てそのことを実感される方は、美術好きであろう。例えば上のカットなど、その色調をどこかで見たことはないだろうか。そう、デンマークの画家、ヴィルヘルム・ハンマースホイ (1864 - 1916。苗字表記はハマスホイとも) である。2008年の国立西洋美術館での日本初の個展に続き、ちょっと先の話だが、来年には東京都美術館で、彼を含むデンマークの画家たちの展覧会を開催予定である。この映画の映像を頭の中に置いて見に行くと、なかなかに興味深いと思うのである。
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# by yokohama7474 | 2019-03-12 20:05 | 映画

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前作「ラ・ラ・ランド」で世界を席巻したデミアン・チャゼルが、その「ラ・ラ・ランド」主演コンビのひとりであったライアン・ゴズリングを主役に据えて、前作とは全く異なる映画を監督した。そもそもこの監督、1985年生まれというから、今年 34歳という若手でありながら、前作、そして前々作「セッション」(原題 : Whiplash) で、一躍世界の耳目を集める存在となった。だが調べてみると、その「セッション」は、監督としての 2本目の長編作品であったらしく、ということは、今回の「ファースト・マン」を含めても、長編はわずか 4本しか監督していないということになる。異例の才能と言ってよいだろう。
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さてこの映画、タイトルの通り、初めて何かを成し遂げた男の物語。主人公の名前はニール・アームストロング。そう、アポロ 11号によって、人類で初めて月面に降り立った宇宙飛行士である。チャゼルはこの企画を「セッション」を完成させた後に製作者から打診を受け、宇宙に強い思い入れはなかったために、最初は躊躇したものの、原作小説を読んでイメージが沸いたとのこと。それは、単なる伝記映画ではなく、月面着陸を彼の目線から描いたものにしたいということだったらしい。つまり、英雄的行動を称揚するというよりは、人間アームストロングが、家族とともにいかなる苦しみや悲しみを乗り越えたかという点に、本作の主眼があるということだろう。これが1969年、人類最初の月面到着。
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さてここでひとつ、やはり書いておきたいことがある。私のような陰謀論好き、与太話好きにとっては、どうしても無視できないことなのだが、「アポロ 11号は本当は月に行っておらず、月面到着の映像は、ハリウッドのスタジオで撮影されたものである」という説が、世の中にはかなり根強くあるということだ。この捏造説の詳細や、それへの反論など、ネット検索すれば多くの情報を得ることができるので、ここでは詳細は割愛するとして、ひとつだけ例として挙げておきたいのは、クリストファー・ノーラン監督の「インターステラー」という映画においては、近未来が舞台となっているが、学校で教師が生徒たちに、「アポロは月に行っていないという真実を教えている」という設定で、主人公の少女は、その教育を頑なに拒むということが、物語のひとつのキーになっていた。当時の米ソの宇宙開発合戦の苛烈さや、月面の映像の不自然な鮮明さ、その時以来人類は月面に降り立っていないことなどが、この「説」の根拠になっているし、やれコーラの缶が月面に転がっているのが写っているだ、風が吹いているはずがないのに旗が揺れているだ、キューブリックが監督したのであるという話まであるわけで、お話しとしては面白い。だが、あれこれの情報を参照してみると、やはりそんな捏造は無理で、実際にアポロは月に行ったのであろうと、私は思っている。

もちろん、そんなことは、この映画を見る上では全く関係ない。ただ、実際のところ、尋常ならざる鋭い感性を備えたチャゼルともあろう監督が、米国の歴史的快挙をただ盲目的に称賛することはないだろうと思って劇場に行ってみたのだが、案の定と言うべきか、少し複雑な情緒の映画になっている。物語は、1961年にアームストロングが幼い娘を失うシーンに始まり、彼がジェミニ計画 (アポロ計画の前段階) に志願。仲間の宇宙飛行士たちにもいい奴悪い奴がいて、そのうちの何人かは訓練中に命を落としてしまう。そして 1969年、ついにアポロ 11号で月に向かう・・・という流れを、セミ・ドキュメンタリー・タッチで描いている。なので、その大きな流れの中には「情緒」はあまりないのだが、寡黙なアームストロングの内面には、常に亡くなった娘への思いが渦巻いていて、そこに「情緒」が生まれている。人類史上の快挙を成し遂げた男は、その内面において、自らの栄光よりも、幼い娘への愛の方が重要であったということであろうか。
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このようなメッセージは、上で触れたチャゼルの意図をそのまま表現しているように思われる。だが、これがどこまで観客の支持を得られるか、私には若干疑問である。ネタバレできないので詳細は書けないが、クライマックスの過剰なまでの静謐さ、そしてラストシーンのカタルシスのなさ、これらは、見る者に対して、少し距離を感じさせるものになってしまっているのではないだろうか。ある種謎めいていると言ってもよいだろう。まさかこの手法で、アポロ 11号の月面着陸は捏造だった、ということを表現しているのではないだろうが (笑)。

興味深かったのは、舞台となっている時代の雰囲気を、細部に至るまで克明に描いていたことで、このあたりの手腕は、さすがのものだと思った。1960年代というと、ヴェトナム戦争がありヒッピー文化があり、米国の中でも、戦費や無駄な宇宙開発に膨大な資金を浪費するのではなく、貧しい人たちを救済せよという運動があったわけである。そんな中、実際に命を賭けて宇宙に乗り出して行った人たちの勇気は、称賛される一方で、必ずしも米国の人たち全員がその快挙を祝福したわけでもなかったのかもしれない。そのような事情が、上記の通りの、月面着陸捏造説の根強さの背景にあるのかもしれないな、と思った次第。そうすると、やはり複雑な情緒の作品にもなってしまおうというものだ。
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このように、私としてはこの作品、デミアン・チャゼルという若き俊英が、その手腕を発揮した点と、狙いに少し無理があった点と、両方があったように思われるのである。もちろん、これからもまだまだその作品に期待できる人であるだけに、また何作か撮ったあとでこの作品を思い出すことで、見えてくることもあるかもしれない。

# by yokohama7474 | 2019-03-10 17:06 | 映画

メリー・ポピンズ リターンズ (ロブ・マーシャル監督 / 原題 : Mary Poppins Returns)_e0345320_23392839.jpg
皆さんは、気分が落ち込んだときに思い出す、あるいはもう一度見てみようと思う映画はおありであろうか。私の場合、同じ映画を何度も見るということは通常はあまり多くなく、実際に映画を再度体験するよりも、むしろ自分の中に沸き上がってくるその映画のイメージを、大切にする方である。その意味で、何か気分が落ち込んだ時に思い出すことがあるうちの一本が、ディズニーが 1964年に世に送り出した「メリー・ポピンズ」であることは、まぁなんというか、ちょっと気恥ずかしいような気もするが (笑)、偽らざる本当のことである。いやもちろん、この映画は私が生まれる前に作られているので、封切りで見たわけではない。それどころか、幼い頃から怪奇なものが好みであった私は、この映画の万人向けファンタジーのようなイメージに対する明確な距離を、実はつい最近まで取っていたのである。それが、今からほんの 10年ちょっと前くらいだろうか、何かの拍子に DVD を購入し、自宅で見たときに、それまでの先入観が一掃された。楽しく、また勇気づけられる上に、英国人気質や 20世紀初頭のロンドンの雰囲気 (社会問題を含め) までもが見事に活写されている。これは素晴らしい発見であり、先入観に捕らわれるのがいかによくないことか、実感するのである。そして今回、この作品、「メリー・ポピンズ リターンズ」である。エミリー・ブラントが新作でメリー・ポピンズを演じるという話は聞いていたが、私はてっきりリメイクだと思っていた。そうすると、あのジュリー・アンドリュースの素晴らしい演技と歌に、どこまで迫れるかという点に興味が沸く。
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ところがこの映画、「メリー・ポピンズ」のリメイクではなく、続編なのである。その点にこの映画の持ち味が集約されていると、私は思う。つまり、前作からの時代の変化や、一方で変わらぬ人々の生活。同様に、個々の登場人物の環境変化と、一方でのキャラクターの継続性。そういった要素をうまく絡めながら、前作に負けないほどの音楽と踊りの魅力を、見る人々に印象づけないといけない。これはもちろんチャレンジではあろうが、実は、リメイクよりは取り組みやすいのではないだろうか。そして私はこの映画、細部のこだわりに至るまで大変うまく行った、素晴らしい映画になったと称賛したいのである。まず音楽であるが、前作の有名な曲の数々のテーマがオーケストラの前奏とか間奏において何度も聴かれる一方で、歌はすべて新作。だがその歌の数々は、新作であるにもかかわらず、どこか懐かしい、古きよきミュージカルの雰囲気を持ち、「メリー・ポピンズ」の続編に相応しい。もちろん、ミュージカルシーンも前作同様に様々な設定があり、別世界への旅というファンタジーもあれば、現実世界における不思議な人との邂逅、また、お堅い人たちとのやりとりや、子供にとっての社会への挑戦といった要素も、それぞれに前作から引き継いだもの。そしてやはり、期待のエミリー・ブラントは、この時代の家庭教師に必要な規律を身につけながら、茶目っ気もあり、また、実は結構ナルシストであったりする点も、前作のキャラクター設定そのままで、実に見事。
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彼女は英国人で、現在 36歳。本作では、幻想世界において本格的なステージショーを繰り広げるシーンがあり、これは歌も踊りも、相当自信がないと引き受けられないような役である。そういえば、彼女は以前もミュージカル映画「イントゥ・ザ・ウッズ」(本作と同じロブ・マーシャル監督) に出演していて、そのときも歌がうまいなぁと思ったものだが、いやいや実際、演技も歌も、実に大したものだ。この作品の主演として、こんなにふさわしい女優もいないだろう。

もちろんそれ以外にもメリル・ストリープが、大女優らしからぬ、大変に体を張った (笑) 演技と歌を披露したり、それから、前作にはないタイプの憎まれキャラクターを (歌はなかったかな?) 重厚かつユーモラスに演じたコリン・ファースも、実に面白い。だが私としては、この映画はいわば、エミリー・ブラントを中心としたアンサンブル映画だと思うので、個々の役者について多くを語りたいとは思わない。それよりも、前作と寸分違わないバンクス家の内部のセットや、使われている小道具へのこだわりを楽しみたいと思う。例えばこれは冒頭間もない、子供が凧を揚げる (揚げようとして風に巻き上げられる) シーンだが、この緑色でツギハギのある凧は、本作において非常に重要な役割を果たすことが終盤で分かるのだが、実は既に前作の「メリー・ポピンズ」にも、同じ凧が登場しているのである。そして、ネタバレは避けるが、今回のメリー・ポピンズの登場シーンには、何かこのバンクス家の「幸せ」を司る魔法使いというイメージが、この凧との関係ではっきり表れていると思う。そうそう、前作同様、メリー・ポピンズの姿勢がよいのですよね!! (笑)
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ところで本作の設定は、前作から 20年後。前作においては、1910年という舞台設定が明確に言及されていたので、本作は 1930年となるはずだが、どういうわけか本作のプログラム冊子には「1934年」となっているし、本作の Wiki では、前作から 25年後となっている。いずれにせよ、前作でバンクス家の子供たちであったジェーンとマイケルの姉弟は、既に大人。ジェーンは貧民救済運動に専念していて独身だが、マイケルには、亡くなった妻との間に、男女の双子とその弟という 3人の子供たちがいる。前回、ジェーンとマイケルの面倒を見たメリー・ポピンズは今回、マイケルの 3人の子供たちの面倒を見るのだが、その 20年間に変わらないのはメリー・ポピンズだけで、もちろん大人になったジェーンとマイケルには、様々な現実が立ちふさがっているし、社会環境も変わっている。前作の舞台である 1910年というと、ちょうど第一次世界大戦前で、英国はもちろん世界一の大国。その一方で、都市における様々な問題も発生していた頃だ。前作でジェーンの母親は、女性参政権運動に従事していたが、調べてみると英国において女性参政権が認められたのは 1918年、ロイド=ジョージ内閣においてのこと (私は見ていないが、それをテーマにした「未来を花束にして」という映画も最近あった)。本作の舞台である 1930年代は、その問題よりも、1929年、米国に端を発して起こった世界大恐慌こそが深刻で、だからこそ貧民救済運動が盛んであったのだろうし、バンクス家も危ない (マイケルの特殊事情もあるとはいえ)。だがそんな中、前作においては煙突掃除屋の人たち、今回ではガス灯の点灯・消灯を行う人たちといった労働者たちは、実に元気に明るく歌って踊っている。上記の通り、もともとこの「メリー・ポピンズ」は、ただのファンタジーではなく、このような社会性も含んだ作品であったので、本作ではその精神を受け継いでいることになる。それも本作の素晴らしいところである。そして、私が是非触れておきたいのは、この人だ。
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私は何の予備知識もなく本作を見て、エンドタイトルで、ディック・ヴァン・ダイクという役者の名前を見て驚いた。このオランダ風の名前には明確な記憶があって、前作であの煙突掃除屋のバートを演じ、また、ラストシーンでは、今回と同じような老け役で銀行の頭取を二役で演じていた、あの役者ではないか!! 調べてみると、なんと 93歳で、自分がかつて演じた老頭取の息子役を、今度は大したメイクもなく (?) 演じているということになる。ただ演技しているだけではなく、驚くべきことに、実際に踊っていて、それはもう大変なことなのである。究極の継続性、ここにありである。そうそう、前作での爆笑ギャグ「スミスという名の義足の男」ネタもチラリと出て来るし、名曲「2ペンス (= タペンス) を鳩に」に基づくストーリー展開もあり、それはもう、あの「メリー・ポピンズ」の続編として、申し分ない出来であると思うのである。是非本作に感動した方は、前作もご覧頂きたいものだと思う。

あと、続編続編と繰り返しながらも、私の勝手な思いをひとつ。本作において、ガス灯を点灯する人たちが、暗闇でも灯りを頼りに進めば大丈夫と歌ったり、ラストでは、正しい選択をすればちゃんと空に舞い上がれる、などというテーマが出て来るが、さて、英国の人たちはこれを見て、BREXIT を連想するか否か。ただのファンタジーではない社会性は、こんなところにも目立たないかたちで忍び込んでいるのかもしれない。ともあれ、私たちとしては、新たに世に出たこの作品から勇気をもらい、笑いをもらい、元気をもらうこととしたい。そうそう、ラストシーンは桜の場面。ちょうど日本でもあと数週間で、見ることができますね!!
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# by yokohama7474 | 2019-03-09 13:48 | 映画

クリスチャン・ヤルヴィ指揮 新日本フィル マックス・リヒター「メモリーハウス」 2019年 3月 5日 すみだトリフォニーホール_e0345320_23295177.jpg
この演奏会には主役が二人いる。ひとりは指揮者、そしてもうひとりは作曲家である。上のチラシでは作曲家の名前があしらわれているので、まずはそちらからご紹介しよう。1966年ドイツ生まれの英国の作曲家、マックス・リヒターである。
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私が彼の名を知ったのは、2015年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンにおいて、庄司紗矢香が、このリヒターが再構築したヴィヴァルディの「四季」を演奏したときのこと (2015年 5月 4日付の記事ご参照)。その後、いくつかのコンサートで彼の曲に接し、また、「メッセージ」「女神の見えざる手」という映画においても、彼の音楽の持つ静謐さに印象づけられたものである。今回すみだトリフォニーホールで開かれている一連の演奏会で、その再構築 (リコンポーズドという言葉が使われている) された「四季」に加え、何曲かの彼の作品が演奏される。それは「すみだ平和祈念音楽祭 2019」の一環であり、またこの日の演奏会に関しては、「クリスチャン・ヤルヴィ サウンド・エクスペリエンス 2019」とも題されているのである。そう、もちろん指揮するのは 1972年エストニア生まれのクリスチャン・ヤルヴィ。もちろんあのネーメ・ヤルヴィの息子であり、パーヴォ・ヤルヴィの弟である。ちょっと若い頃のジョン・トラボルタを思わせる風貌である。
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このクリスチャン・ヤルヴィは、現在はメジャー・オケのポストは持っていないようであるが、もともと現代音楽に強い指揮者で、様々にユニークな活動を展開している。そんな彼が今回、新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) を相手として演奏したのは、以下のような意欲的なプログラム。
 リヒャルト・シュトラウス : 交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」作品30
 マックス・リヒター : メモリーハウス (日本初演)

プログラム冊子に掲載された彼の言葉によると、彼がここで目指しているのは、聴衆が「自分自身の中で『物語』を作り出しながら、音楽という宇宙を旅していただきたい」ということであるらしい。つまりこの 2曲の共通性は、「答え探し」。シュトラウスの「ツァラトゥストラ」はもちろんニーチェの哲学書に基づいて作曲されたものであり、「答え」は何万通りも用意されていて、それが正しいか否かは聴衆次第。一方のリヒターの「メモリーハウス」は、さまざまな場所、感情、ムードを表現しているが、それを聴く体験は、ちょうど宇宙飛行士が遥か彼方の上空から地球を眺めようなものだという。なるほどこれは含蓄深い。

最初の「ツァラトゥストラ」は、冒頭部分を知らぬ人もいないほどの有名曲であるが、映画「2001年宇宙の旅」に使われたイメージが既に定着してしまっていることもあり、確かに、聴く度に宇宙的な広がりを感じる。今回の K・ヤルヴィと新日本フィルの演奏は、リヒターの日本初演作の「前座」にするのはもったいないような力演であり、曲の持ち味は充分に発揮されていたと思う。クリスチャンの指揮は、兄パーヴォの指揮に比べると器用さはないように思われ、指揮棒を持たずに両腕で短い円弧を描くような指揮ぶりだ。それゆえ、耳から入る情報にはあまり伸びやかな感じはないようにも思ったが、だがその代わり、音楽的情景のひとつが終わって次に移る際、ぐるっと世界が動くような、そんな力強さを感じさせた。決して流麗ではないが、強い表現力である。これがクリスチャンの個性なのであろう。いつもながら、本拠地すみだトリフォニーホールで聴く新日本フィルの演奏は美しく、木管、金管にも傷はほとんど聴かれなかった。もちろん。さらに華麗で豪快な演奏はあるかもしれないが、これはこれで、聴きごたえ充分であった。こんな宇宙的イメージ。
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さて後半は、メインのマックス・リヒター「メモリーハウス」の日本初演である。この作品は演奏に 80分を要する大作で、書かれたのは 1999年から 2001年である。もともと初演のあてもないまま作曲していたところ、BBC が注目して、まずは録音され、2002年に CD がリリースされた。その後ライヴでの世界初演は 2014年のこと。録音からライヴ初演までの間に、少し曲に手が加えられたようだ。これは CD のジャケット。
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この日本初演、私も全くイメージのないまま聴いたのであるが、全曲は 18曲から成っており、オーケストラ以外に、エレクトロニクス、ヴァイオリン、ソプラノ独唱を必要とする。そのうちエレクトロニクスや、シンセサイザー、チェレスタ、ピアノを、作曲者リヒター自身が担当していた。舞台に出て来たリヒターは、マイクを持って聴衆に、今回の演奏に関わることができて嬉しいと語り掛け、共演者たちの名前に触れ、「この曲は、社会的、政治的、個人的歴史の反映です」と述べてから、少し意外なことを喋ったのである。つまり、「20世紀の歴史は、あまり思い出したくないものかもしれません。この『メモリーハウス』では、少しはよいものになっていればよいのですが」といった内容。事前に曲目解説を読んでいたので、ここでのリヒターのメッセージを聞いて、そこには二重の意味があると、私は考えた。すなわち、戦争の世紀であった 20世紀を振り返ることは、この日のコンサートが属している「すみだ平和祈念音楽祭」にふさわしいこと。それから、ここで彼は、音楽が音楽でなくなってしまった 20世紀に思いを馳せ、人の感情に訴える音楽をここで聴かせる意図があること。そういえば、上述の通りこの曲は、1999年から 2001年まで、つまり、20世紀の最後から 21世紀の最初にかけて作曲されているのである。だからここでリヒターは、20世紀を回顧して、21世紀に視線を向けているのだと思う。

リヒターの作風を一言で言うならば、ミニマル・ミュージックということになるだろう。この 80分の大作では、ヴァイオリン (マリ・サムエルセン)、ソプラノ (グレイス・デヴィッドソン) に加え、オケを含むすべての楽器が PA を通して、またエコーをかけて、会場に響き渡っていた。様々な楽器の組み合わせで演奏されたが、そこには、録音された雷雨の音響がしばしば現れ、20世紀ロシアの女流詩人マリーナ・ツヴェターエワの朗読や、やはり 20世紀を代表する前衛作曲家ジョン・ケージの朗読、また、ルネサンス期のオランダ人作曲家ヤン・スウェーリンクや、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータへのオマージュもある。それから、1908年という年に音楽における後期ロマン派が終わったということや、1922年にシェーンベルクが十二音技法を完成させたことへの言及がある。また、第一次世界大戦勃発の地であり、またユーゴ内戦の舞台でもあるサラエヴォをテーマにしたり、ベルリン日誌という曲もある。上記の通り、ここでは、20世紀の戦争を振り返りつつ、後期ロマン派が極限に達したあと、シェーンベルクの手によって、いわゆる現代音楽なるものが生まれ、そしてジョン・ケージによって、伝統的な音楽は完膚なきまでに破壊されたことに対するノスタルジーが込められているのであろう。ここで音楽は、20世紀の作曲家たちが気恥ずかしくて書かなかったような抒情を帯びて、非常に美しく響く。陶酔的な時間であった。ただ、もしこの曲に課題があるとすると、楽器編成が様々に移り変わる割には、曲調自体はそれほど変わらず、抒情的なミニマル調から逸脱することがないことであろうか。正直、80分はちょっと長い気もしたし、我々が既によく知っているミニマル・ミュージックの再現のような箇所も多かった。ただ、クリスチャン・ヤルヴィと新日本フィル、そしてソリストたちは、真摯にこの曲に向かい合っていて、その点は感動的であった。

そして終演後、リヒターが再びマイクを持って語ることには、改めてこの演奏への参加が嬉しいということであり、そしてアンコールが紹介されたが、それは自作の「オン・ザ・ネイチャー・オヴ・デイライト」という曲。これは、リヒターの次作「ブルー・ノートブック」の第 2曲で、やはりなんとも抒情的なミニマル・ミュージックであった。実はこの曲の中間部におけるヴァイオリンの対旋律は、「メモリーハウス」全曲のメインテーマであるのである。マックス・リヒターという作曲家、なかなかに一貫性のある創作活動を続けていると評価できるだろう。

今回、終演後に作曲者と指揮者によるサイン会があったが、既に終演時刻が遅かったので、それには参加せずに帰宅した。このリヒター、近々公開される映画で、また音楽を担当しているのであるが、それは、3/15 (金) 公開の「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」。この題名で明らかである通り、あのスコットランドの女王で、悲劇的な最期を遂げたメアリー・スチュアートと、そのライヴァルであり、英国の運命を決したエリザベス 1世の物語。うーん、その雰囲気に、リヒターの音楽はかなり合いそうである。これは必見!!
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# by yokohama7474 | 2019-03-06 01:29 | 音楽 (Live)

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1956年ポーランドに生まれた現代最高のピアニストのひとり、クリスティアン・ツィメルマンを聴く。私は、2015年12月の彼の名古屋でのリサイタルや、昨年 9月のサイモン・ラトル指揮ロンドン響との共演の様子を、以前記事にしたことがある。今回の来日ツアーは、「ポーランド芸術祭 2019 in Japan」の一環と謳われているが、このイヴェントは、日本とポーランドの国交樹立 100年を祝うもので、音楽のみならず映画や演劇、アートや文学の面でも、ポーランド芸術が紹介されるものであるらしい。だが正直なところ、このリサイタルのチケットが発売されたときにそのような知識はなかったし、いやそれどころか、当初は確か曲目未定とされていたと記憶する。それでもさすがにツィメルマン。この日のリサイタルは完売で、急遽 3月 5日に東京オペラシティで追加公演が決定した。会場に着いてあたりを見回すと、普段のクラシックコンサートよりも女性が多いように見受けられた。それを端的に表すのは休憩時間のトイレの列で、よくオーケストラコンサートの場合には (特にブルックナーとかマーラーの場合には) 男性トイレに長蛇の列ができるものだが、今回は女性の方の列の長さに比べて、男性の方は、それはもう空いていたこと (笑)。若い頃は甘いマスクとして知られたこのピアニスト、62歳になった今でも、女性に大人気ということだろうか。因みに若い頃はこんな感じであった。
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ともあれ、音楽は顔で奏でるものではないゆえ、そのような余分なことは置いておいて、今回の演奏について語ろう。当初未定とされた曲目はその後、上のチラシにある通り、ショパンのスケルツォ全曲 (1 - 4番) が発表されたが、結果的には、それにブラームスが組み合わされて、以下の通りとなった。
 ブラームス : ピアノ・ソナタ第 3番ヘ短調作品 5
 ショパン : スケルツォ 第 1番ロ短調作品20、第 2番変ロ短調作品31、第 3番嬰ハ短調作品39、第 4番ホ長調作品54

これはなかなかに充実した内容である。ブラームスのピアノ・ソナタは 3曲あり、この第 3番は最後のものだが、「5」という極めて若い作品番号で分かる通り、これはこの作曲家の若書きの作品。実は、彼の作品 1はピアノ・ソナタ第 1番。作品 2はピアノ・ソナタ第 2番であり、それらと近い時期に書かれたこの第 3番は、弱冠 20歳の頃の作品だ。これはそれほど演奏される曲ではないが、いかにもブラームスらしい重厚さと情熱をもった曲。そして後半は、ツィメルマンの故国ポーランドが生んだ天才、ショパンの残した「スケルツォ」と題する曲、4曲すべてを演奏する。この 4曲はもともとセット物でもなんでもなく、作品番号もつながっているわけではない。また、第 1番、2番の演奏頻度に比べて第 3番、第 4番のそれは少ないのが実態であるが、この 4曲を続けて演奏することで、いかなるショパン像を聴くことができるだろうか。尚、今回のツィメルマンの来日リサイタルは、2/16 (土) の柏崎を皮切りに、1ヶ月の間に全国 8か所で開催される (東京・柏崎以外には、長野、西宮、福岡、熊本、横浜) が、このサントリーホールでのリサイタルまでの 3公演が同じ曲目、そして残る 5公演は、後半のショパンのスケルツォは同じだが、前半にはショパンの 4つのマズルカ作品 24と、ブラームスの 2番のソナタが配されている。

以前も書いたことであるが、このツィメルマンというピアニスト、その音の深さによって、ピアノという楽器の表現力すら広げてしまったようにすら思われる、真に偉大な存在である。音が深いと言っても、孤独感にこもるとか、過度に神経質になることはなく、音楽自体を飛翔させるような、ある種の軽やかさも持っていると言えばよいだろうか。技巧が際立って聴こえるタイプではないのだが、曲想によっては、まさに圧倒的な打鍵の強さと、強音でも決して濁ることのないクリアな音質によって、聴く者を文字通り圧倒する。今回、3年数ヶ月ぶりのリサイタルを聴き、彼がますます高い境地に達しているように思われて、大変に感動した。例えば最初のブラームスなどは、若書きの弱点を巧妙に隠して、さらに聴きやすい音楽として演奏するピアニストもいるだろう。だがここでツィメルマンが紡ぎ出したのは、天才の若書きの音楽そのものであり、そこにはたっぷりのロマン性と、将来を見据える若き作曲家の情熱が横溢していた。5楽章からなる 40分ほどの曲であるが、第 1楽章の力強さ、第 2楽章の抒情、第 3楽章スケルツォの生命力、そして「回顧」と題された、再び抒情性に満ちた第 4楽章 (20歳にして「回顧」とは、いかにもブラームスらしい。笑)、そしてロンド形式の第 5楽章は、いずれも誠実に再現され、様々な曲想の対比も見事なら、常に底光りのするような音、そのひとつひとつの揺るぎない存在感も、素晴らしいものであった。多少の誤解を恐れずに言ってしまうと、ここには音のドラマがあったと表現してもよいのではないだろうか。たまたま上で「ロマン性」という言葉を使用したが、ツィメルマンの音楽には、ただそこで鳴っている音を超えて、何か聴く者の想像力を刺激するようなものがあり、それこそロマン派の音楽に必要なものではないだろうか。因みに今回彼は、横長の譜面を舞台に携えてきて、譜めくりの助手は使わず、自分で譜面をめくりながらの演奏であった。
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だがやはり圧巻であったのは、後半のショパンであろう。もちろん彼はポーランド人であるから、祖国の誇るこの作曲家をレパートリーの中心に置いている。と、そんなことを言ってみても、この日のツィメルマンの演奏のイメージを伝えることにはならないだろう。そもそもこのショパンという作曲家、パリのサロンで人気を博した優雅な音楽と、なんとも情熱的で白熱的な音楽 (時によってはそれは、離れてしまった祖国への思いがストレートに表現されているわけだが) との双方を書いた人だが、今回のスケルツォという曲は、4曲による持ち味の違いは多少あるにせよ、やはり後者のタイプの音楽だ。今回のツィメルマンは、第 1番の冒頭の和音から気合充分で、サントリーホールの隅々にまで、その力強い響きは届いたことであろう。それから始まる、まさに目のくらむような音の渦と、ふと郷愁に駆られるような抒情性。情熱が迸るからこそ、ふと顔を覗かせる抒情性に、聴く者の心を強くとらえるものがある。圧倒的であった。上記の通りこのスケルツォの 4曲は、もともとセットとして作曲されたものではなく、別々の機会に作曲されている。そして 1曲 1曲に多大なエネルギーを要するので、演奏も 1曲終わるごとにツィメルマンは立ち上がって拍手を受け、毎回ステージ袖に引っ込んでいた。興味深かったのは、この後半でも彼は横長の譜面を見ながらの演奏であったが、1番と 2番に関しては、演奏中に譜面を見ることもなく、次の曲の演奏に入る前に、パラパラとまとめてページをめくっていたが、3番と 4番については、譜面をめくりながらの演奏であった。もちろんこれは、有名な 1番・2番と、さほどでもない 3番・4番との間に、ツィメルマンと言えどもなじみ方の違いがあったということかと思うが、だが、それはもちろん、暗譜で全部演奏しようとすればできるはずである。それなのに、このように譜面を見ながら演奏するという誠実さこそ、彼の音楽の一面を表しているようにも思われる。それにしても、今でも耳の底に残っている、あの輝かしい音色!! 第 4番には、まるでリヒャルト・シュトラウスかと思うような伸びやかな音楽が響く箇所もあるのだが、ロマン性溢れるツィメルマンの演奏で聴くと、そのことを余計感じてしまう。考えてみれば、同じロマン派に分類されるショパンとブラームスの間には、何か交流があったのだろうか。ショパンはブラームスより 23歳年上で、死去したときにはブラームスは未だ 16歳であったし、両者は活躍の舞台も違うので、この 2人の間に直接面識があったとは思えない。また、その音楽には大きな違いがあるのだが、それでも、ここには西洋音楽の歴史の継承があることは確かだろう。ショパンとブラームス。これらのロマン派音楽は、そのような継承を経て今日まで残っている、かけがえのない人類の遺産なのであると、改めて認識する。

アンコールにも、ブラームス、そしてショパンが演奏された。後半でショパンのスケルツォ用にステージに携えてきた一連の譜面の中に、それらの譜面も入っていたわけで、即興ではなく、最初から周到に考えられたアンコールであったわけだ。最初のアンコールでは、ピアノの前に腰かけ、客席に向かって「ブラームス」と言ってから、しばし沈思黙考。演奏前の集中かと思いきや、その後「オーパス、ジュウノ、イチ」と言った。Opusとはもちろん作品番号のこと。4つのバラードから第 1番作品10-1である。もちろん、ここにもブラームスのロマン性が漂う。そして、その後演奏されたのは、ショパンの 4つのマズルカ作品24から、第 17番と 14番。この 2曲は、別の日のプログラムに入っているのだが、ここでもきっちりと譜面を見ながらの演奏であった。このマズルカは、今回のプログラムにおける強烈なロマン性を和らげる効果があったと思う。素晴らしいリサイタルであった。

帰宅して改めて、このツィマーマンのレパートリーを考えてみた。彼は 1975年のショパン・コンクール優勝者 (最年少、18歳) であり、カラヤンやジュリーニやバーンスタインとコンチェルトを録音している人であるから、その経歴は既に長いものであるのだが、こと録音に関して言うと、レパートリーはかなり限定的だ。例えばコンチェルトでは、ベートーヴェン、ブラームス、シューマン、リストといったドイツ系の主要なところを録音している一方で、ロシア物は、ラフマニノフはあるがチャイコフスキーはない。近現代では、ルトスワフスキ (彼もポーランドの作曲家である) のコンチェルトを 2度録音しているにもかかわらず、プロコフィエフやバルトークはない。また、ソロにおいても、ショパンも実はそれほど広範には録音しておらず、シューベルトやリストは少しあるが、例えばモーツァルトも、そしてなんと、ベートーヴェンのソナタもないようだ。実際の演奏会では (今回の曲目もそうだが)、録音していないレパートリーを採り上げることは多いようだが、それらを記録として世に問うということには、あまり興味がないのかもしれない。こうして振り返ってみても、彼の録音レパートリーは、やはりロマン派が中心になっているが、でも例えば、バッハなど演奏してくれたら、きっと素晴らしいのではないかと、勝手に想像する。彼は日本にも特別な思い入れをもってくれているようなので、また新たなレパートリーを聴けることを期待したいと思う。あ、そうそう、ポーランド芸術祭 2019 in Japan のほかのイヴェントにも、注目したい。
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# by yokohama7474 | 2019-03-01 06:04 | 音楽 (Live)